根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】カット割り並びにfocusすることについて

 最近ではめっきり見なくなってしまったが(それは何故)「ドラマ」というのは昔から嫌いではなかったと思う。そして気にするようになったのは、これもまた最近のことだ。どうも、ドラマ(映画も同様)を見ていると、足音とシーンのカット割りが気になる。

 足音については「普通に歩いていたらこんな風に過剰には鳴らねえだろ」と思う。その過剰さが気になるだけで、足音というのは昔から好きだ。きっかけは、多分、ドラマ「探偵学園Q」の第一話だろう。YouTubeでも足音の素材には事欠かない。砂利の駐車場とか垂涎ものである、というのはさておき。カット割りの話に移る。

 カット割りによって、視点が動くと思う。見る角度が変わる。それが気に喰わないとかじゃなくて、実生活ではまずありえない視点移動が起こるので、「ああ、そりゃフィクションだよなあ」と思い知らされるのが、ちょっとノイズなのかもしれない。じゃあカット割り不要!というとそうでもなく、肯定でも否定でもない、映像の手法として存在するだけのもの、という感じだ。視聴するときに違和感が残るだけのこと。あ、ちなみに、この違和感は、実写の映像でのみ出現するもので、アニメーションなどの二次元においてはない。最初から実生活と切り離されているからだろう。

 で、話が飛ぶのだが、K-POPファンならおなじみのfancamという文化について書きたい。私はこれを「見ることの所有化」とか思っていたりする。特定の人物を「推し」がちなアイドル界隈と親和性が高い。個人で例えばライブに参加したりして撮るfancam(fancamってそういうものですね、具体的には特定の個人にfocusしたfancam)は、fancamという文化の是非は置いておいて、その動き自体に違和感はないのだけど、例えば音楽番組などより公的な媒体が個人フォーカスの映像を是としているのは、というか、それを出すことになった過程については違和感がある。要は、綺麗なfocus映像を見たいというニーズの高まりを受けて(あるいは、その文化を主導したいと番組側が思って?)そういうことになったのだろうが、ニーズは何故高まるのか、どうして人は、推しだけを見たいと思うのか、が個人的にとても気になるのだった。

 最初に書いておくと、fancamとか個人にフォーカスしたものを否定はしないのだけど、それでいいのだろうか、と懐疑するのは、私がアイドルを推すことについて距離を置きたい人間だからだと思う。いわゆる「推し文化」への懸念というか、罪悪感というか、ばつの悪さというか。書き手はそういう立場なんだと思って読んでいただければ幸い。

 ○○focusというのは、視点の固定化だ。アイドルだとグループの中の特定の個人だけが映る映像。これって、「その人だけを見たい」と言うこともできるし、「その人以外を見たくない」と言うこともできる。その、ある種潔い感じ、潔癖な感じはわからなくもなく、推すという行為に伴う拒絶とか残酷さみたいなものにつながると思っていて、それが悪いと言いたいわけでもなく、大切なのは、人間というのはそういう風に思っている以上に何かをきっぱり拒絶できるし、漂白された空間を志向する過程で絶対何かが切り捨てられているのだ、ということの想像力を持ちたい、ということだ。○○focusの動画を見るときに、ほんの少しだけ感じる居心地の悪さは、自分の潔癖さに対する後ろめたさだと思う。

 いいじゃんいいじゃん、そんな真面目なこと考えてないでさあ、純粋に楽しもうよ、という声があるかもしれない。まあ、そうだろうなと思う。でも、アイドルグループを好きになった人ならわかる通り、その中の一個人だけを純粋に好きになったとしても、その個人はグループにとって不可欠であるように、別のメンバーもまたグループにとっては不可欠であり、グループに属する人たちはその中でお互いに影響し合っている。まったく他者を切り離すことはできないのだ。○○focusという映像が悪いわけではない。ただ、そういう映像を所望する心の中には、個人を推す一方で、それ以外を切る動きが少なからずあるのではないか、それは、もっと広げて考えると、自分が所属する共同体とそれ以外との仲間意識の違いにつながったり、まあ、大きな話ができるかもね、ということ。

 あと、先ほどのカット割りに絡めて書くと、自分が望む形で視点を固定するのは、なんというか、不自然だ、と思う。実生活で考えるならば。私の視点移動は常に肉体的制約がかかるし、視点を固定させようにも、それでは交通事故に即遭遇するだろうと思う。生きる上で、視野はもっと広く、視点は体が許容する範囲で(つまり、ありえない角度から見ることはできない)移ろいでいく。ライブに参加するときの私の困りごととして、誰を見ていいかわからない、できることなら目があと12個欲しい、と思うのだが、それができないのが人間で、その困難さを技術という形ではなく、気持ち的に乗り越える必要があると思う。偶然性を良しとしたり、潔癖になりすぎない、完璧主義に陥らないということ。

 ジャニーズでも、ライブDVDなど特定の曲についてはメンバー毎の映像が特典としてついてくる、というのがあるらしい。ニーズとしてはわかるが、そこに入れ込みすぎると反動がきつそうだなとも思う。潔癖であろうとするのも、結構労力が要る。

近況(2023年8月)

 長らく更新が停滞している(1か月に1回程度?)当ブログですが、いや、ブログ自体はほぼ毎日書いているし、ブログへの熱が冷めたとかそういうのは一切ない、断じてない、じゃあ、どうして私はこのブログを更新できないのだろう…。めっちゃつまらない人間になってしまったのだろうか、そんなの嫌だなあ、と思い、現状を整理する上でも、最近の私にとってHOTなものを軽く書いてみたい。

 

ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム

 終わらぬ。6月の初めに買って、そこから毎日とは言わないまでも少しずつ少しずつ遊んでいるのに、終わっていません。どうして。それだけボリューミーなゲームであること、いわゆる「神ゲー」であることはおそらく他の誰かが既に述べていることだと思うので、私なりの遊び方を書いてみると、ゲームを立ち上げて(私はどうも律儀に、一回一回ゲームを終わらてしまう。スリープ状態にして、中断することも可能だというのに)その一回のplayで何をしたいのかをざっくり考える。この場所行ったことがないなとか、こういう素材を集めたいなとか、雑魚敵を狩りたいなとか。そして、それをやる。おしまい。ストーリーを進めたくなったら進めるし、進める気分でないなら進めない。その選択ができるというのが、ティアキンの特徴だろう。多くのRPGゲームは、寄り道要素が少なく、メインストーリーをこなす以外選択肢がないことも多い。ティアキンの後続で、順番待ちをしているゲームが既に3本あるのに、ティアキンをひとまず落ち着かせないと手をつけることができず、人間の時間は有限、さて、どうしたものか、と嬉しい悩みです。

 

春野『The Lover』

 最近このアルバムばかり聴いてしまう。めちゃめちゃ好きだ。力の入れ具合が、今の心の雰囲気にマッチしていて聴きやすいのだと思う。

 

ミドリ MDジャーナルノート 1日1ページ

 日記(のようなもの)! 楽しく書いている。日々の方向修正に一役買っていると思う。引き続き取り組むことで、メンタルのケアにもいいだろうし、やりたいことができるような気がする。

 

読書

 もっぱら図書館派の私は、借りすぎて読み切れず悲しくなることを何度も繰り返しており、いい加減学べよと、1回で借りる本を2,3冊に絞ったところ、悪くない感じ。今の自分の読むペースに合っている。今日も1冊本を読み終えることができて充実感でいっぱいである。あんた電子書籍にしないんか?と聞かれることもあるけれど、残りページを実感できる紙の書籍の後半のドライブ感はやばくないですか、と言いたい。本を読むことは山登りに似ているところがある。ま、まともに山に登ったことって少ないですけど。

 

筋トレ

 筋トレというほどかっちりしたものではなく、細かく運動する、を目標に、その日やりたい部位を決めて(腕の日、腹の日、足の日等)気が向いたときに数分筋トレをする。その効果があるかはわからないけれど、やらないよりはましでしょう。

 

今後の楽しみになりうるもの

 涼しくなったら自転車乗り回す、はがき・ステッカー集め、欲しいトートバッグ、積んでいるゲーム、涼しくなって散歩もたくさんできる、行きたい美術展、スタジオジブリの新作

【あんスタ】Honeycomb Summerを聴く夏

 Crazy:BのHoneycomb Summerがいい曲すぎる。多分去年も同じことを考えていた。駅のホームで電車を待ちながら同じ感想を抱いた記憶がある。それもまた暑い日のこと。

 夏らしさ、というものを考えている。海、砂浜、アイス、かき氷、ドライブ、きゅうり、汗、扇風機、打ち上げ花火。そりゃあもう、夏らしさを感じる象徴はたくさんあって、私はそのどれもがいけ好かない。「それは夏だ」と言うことのできてしまう、物とイメージを結びつけるあらゆる鎖をぶった切ってやりたいひねくれ者が、Honeycomb Summerを聴くと「いや~夏だね~~~~」とテンションが上がってしまう、この矛盾をどうにかしてくれ。

 Crazy:Bが真夏の屋外のステージでこの曲を披露しているイメージが容易に浮かぶし、それは私にとってとても幸福な想像だ。Crazy:BがHoneycomb Summerを歌う世界でよかった。地球は年々暑くなり、今年の夏は本当にひどい暑さらしいが、それでも夏を祝福できるのは音楽のすばらしさだろう。音楽があって良かった。

 この曲の好きなポイントは、二番サビを全員一緒に歌いきるところと、そもそも二番サビがあるところと、ボリューミーなんだけどまったく飽きないことと、ラストサビでまっすぐ直球に「君といたいんだ」と歌うところだ。最高。暑さに、倦怠感に萎れていないで、Honecomb Summerのように元気にやっていきたい。

【雑記】LINEが嫌い

 「私、友だちがいないんですよー」と開けっぴろげに切り出すのは、一つの戦略としてはありだと思うのだが、果たしてそんな風に堂々と言ってのけていいものなのだろうかと思う気持ちも拭えない。友だちはいた方が良いと思うから。ただ、この文章を書くにあたっては、友だちがいないことを書かないと進まないので書いてみる、という言い訳、の言い訳、の言い訳(エトセトラ)。

 友だちがいないので、私は普段、LINEというコミュニケーションツールをほとんど使わない。連絡も来ないし、私から連絡をすることもない。ただし、知り合いはいるので、その人たちと万が一連絡を取る際にLINEが必要である為、LINEをアンインストールすることはできない。通知1000件とか、私の人生には絶対にあり得ないだろう。そもそも1000人もの人と人生トータルで関わることなんてあるのか…無いだろ。

 このブログのコンセプトは、好きなことにとにかく言葉を尽くす、だが、今回は趣旨を変えて嫌いなことに言葉を尽くしてみようじゃないか。さて、やっていこう。私はLINEが嫌いです。この場合のLINEとはメッセージアプリのLINEであり、それ以上でも以下でもない。

 

 どれぐらい嫌いなのかというと、LINEアプリを動かしてホーム画面を表示させるだけで気持ちが悪くなるぐらいには嫌いだ。本当に気分が悪くなるので、必要でなければ絶対動かさないし、必要な場合は速攻で用件を済ませる。

 嫌いと書きながら考えているけれど、この気持ち悪さは、嫌い、ではなく、怖い、かもしれないなと思った。私はLINEが怖いのかもしれない。だから嫌いなのだ。

 怖い? 何が?では、何が嫌いなのかをまず言語化してみよう。

 「友だち」や「グループ」が一覧化されるのが嫌い。人間関係というのは時によってムラというものがどうしてもあるもので、昔は仲良かったけれど今はそれほど…という関係はざらにある。それは悪いことじゃない。でも、LINEでいちいちそれを思い知らされるのが苦痛すぎる。思い出したいときに思い出させてくれ。会いたくなったときに思い出させてくれ。用もないのに画面に表示させないでくれ、ということで便利な機能があるものですね、「友だち」については動かしていないものは大体非表示にしている。また、性分的に、何も悪いことはされていない人達をブロックするのが無理なので、非表示にしている。連絡は来ないのでそれで問題ない。全員を非表示にできればいいのだが、そうもいかないもので、比較的最近メッセージのやり取りがあった人については非表示にしない。ああ、辛い。願わくばすべて非表示にしたい。私はちゃんと覚えているから、私の好きなタイミングで引っ張りだす自由をくれ、と思う(まあ、一応その自由はある、私が非表示にしていないだけ)。

 LINEのUIはどうか。トーク画面をメールボックスみたいに分類化できたらいいなと思う。どうでもいいトーク、読み返したいトーク、みたいな。優先順位というよりは、そのトークに臨む際のマインドをそのカテゴリごと切り替えられるように。宅急便のメッセージにいちいち身構えたくなくて、宅急便のメッセージと、活発なやりとりをしたメッセージとでは、優劣以前に種類が違う。それらが混同されているのもまた不安。分類させろ。

 そもそもだ。「友だち」って呼称をやめてくれ、と思う。友だちじゃないんだが。せめて「知り合い」にしてくれ、と思う。でも知り合いは知り合いで「知り合いかも?」という謎のカテゴリがあるから困ったものである。私の友だち観が狭量、特殊が故の怒りのツッコミかもしれない。でも本当に「友だち」ってやめてくれ。友だちじゃない人もいるのだ。この人が友だちかどうかなんて、いちいち考えたくない。

 LINE 嫌い で検索すると、LINEでメッセージを返すのが嫌い、という内容でヒットすることも多い。LINEというアプリが嫌い、と、LINEでメッセージを返すのが嫌い、というのは別物である。別物であるが、私の場合は、LINEというアプリへの嫌悪感(というか恐怖感)がLINEでメッセージを返すのが嫌い、につながる部分がある。簡単な話で、LINEが嫌いなのでLINEというアプリからつい目を背けがちになり、結果としてメッセージを送るタイミングを見誤り、自己嫌悪に陥り、メッセージをやり取りすることも嫌になる、という流れだ。どうしてくれるんだ、LINEよ。

 メッセージのやりとりに苦手意識を抱くかというと、それは難しいところだ。確かに慣れていない相手だとメッセージに関してはそれはもうたっぷり考えまくるが、慣れてしまうとかなり条件反射的に、思考を停止したメッセージを書くことができる。失礼に思われたらそれでいいという開き直りを獲得できるまでの長さは、相手に寄るだろう。文章を考えること自体は苦手ではなく、その文章が相手にどう読まれるか、という、ただそれだけのことをずっと考えているので、メッセージのやり取り自体は嫌いではないだろう。

 ただ、これはLINEだけでなくメールやSNSのメッセージなど、あらゆる場所の受信に言えることだけれど、自分への「お手紙」はその内容がどういうものであれば緊張する。ドキドキする。どういうことが書かれているのか、今からそれを読んで反応しなければならないということがとても億劫に思える。昔の私はそれを「湖に投じられた石」と呼んだ(湖が、安定した状態の自分の心)。何にせよ石が投げられたということは、水面に波紋が広がるということで、私はその波紋にいつもドキドキするのだ。でも仕方がないことだ。人間は日々石を投げあっている。コミュニケーションというのは相互の石のやりとりのようなものである。なので、生きている限り避けられないことなのだと自分に言い聞かして日々頑張っている。仕事のメールとかも結構怖いのよなー。いっつもドキドキしてしまう。なのでLINEの通知にいつもびびっている。通知は切っているので、正確にはアプリのアイコンに赤い数字がつくだけだが。

 LINEが怖いのは、私自身が抱えているコミュニケーションの難しさも要因としてあるのだろう。悲しいことに、困難を、恐れを、LINEというアプリはあまり軽減してはくれない(それはそう)。なので、私はいつまでも「LINEは嫌い」と喚きながらLINEから完全に離れることはできない、中途半端な場所で呪詛を垂れ流す。

 

 いっそのこと、LINEはアンインストールしよう、と思わなくもない。「あれー、治野さん、連絡取れなくなっちゃった」と言われても構わない。今、連絡を取っていないのだもの、別にこれからも連絡しない。必要な人には電話番号を教えよう。それでいいじゃないか。今はそれが現実的ではないけれど、いよいよできるようになったら、私はLINEとおさらばするかもしれない。でも、今のところは、LINEという存在を私の頭の中で殺して、封印することでなんとか心の平穏を保っている(が、時々LINEに触ることがあると、発狂する)。

【文房具】ドクターグリップの良さ

 専らシャープペンシルクルトガ派だったのだが、ひょんなことからドクターグリップを使い始め、以来ドクターグリップ生活が楽しい。中学生の私は「このシャーペン、おもたいなあ…」と思っていたのに、不思議と今は気にならない。筋量もそこまで変わらないと思うし不思議なものだ。まあ、勉強量が圧倒的に少なくなったのはあるのかも。

 ドクターグリップの良さ。

  1. ペン本体が太い(使用しているドクターグリップ クラシックの場合)
  2. シャカシャカ

この二つがある。クルトガの特徴である、内蔵されている機構のおかげで常にシャープペンシルが尖ったまま、というのは当然ないけど、あんまり気にならない。もちろんクルトガのそういうところが私は好きなのだけど。シャー芯の尖り以上に、使用しているときの重さだったり安定感が今は気になっている私みたいだ。

 ペン本体が太いからか、力を入れやすいかつ無駄に入れすぎない、故に疲れにくいところがある。長時間耐久だとどうなるかわからないけれど、今の私はそこまで勉強しないので(悲しいことに)いいでしょう。さくっと書きたいときにどっしりとそこにあるドクターグリップに信頼を寄せている、は言い過ぎだけど、安定しているのは嬉しい。

 シャカシャカ。なんだその仕組みは、ノックくらい自分でしなさい、という言葉は尤もだけど、これがいいのだ。筆が乗っているときに、ノックしてシャー芯を出すのとシャカシャカするのとでは微妙だが大きな違いがあると思う。ノックの方がぶった切られ感が強く、そこに息が入る。ノックは筆運びのリズムを阻害しない。ノックするのとシャカシャカするのとでどちらが楽しいかというと、それはシャカシャカである。楽しすぎるあまり、そしてそれが体の動きとして自然であるが故に、ジェットストリーム多色ペンをシャカシャカして悲しくなることがよくある。ジェットストリーム多色とドクターグリップクラシックはペンの太さが近しい(だいぶ多色ペンを使い倒してきたから、それもあってドクターグリップが安定するのもある。昔は細い単色ペンの方を好んでた)。

 ドクターグリップ良いよね~という文章を書き始め、そして書いたはいいが終わらせ方がわからなくなってしまった。オチがない。シャープペンというのはあくまで道具であり手段であり、目的ではないのだということを痛感している。目的について書くならば文章の終わらせ方も見通しがつくが(目的の達成度合いと今後の展望)手段については後にも先にもない。ドクターグリップの展望はあるだろうか。展望があるとすれば(それはドクターグリップに限らず多くの文房具に共通するものだが)なるべく長く、使いやすいと感じる人のそばに居続けられる製品であってほしい、ぐらいか。それは私が願ってもしょうがない部分もあるけれど。

【物】撥水お化けな折りたたみ傘

折りたたみ傘が嫌いだった。風が少し強く吹けば生地の部分がばさっと裏返るところも、持ち手の部分が緩み取れそうになるところも、雨を凌いでたたんだ傘がたっぷりと濡れ、所在なげに私の手からぶら下がるところも嫌いだった。長傘より嫌いなところが多かったので、いずれ雨は上がるとわかっていても長傘を差した。これから雨が降るとわかっていても閉じた長傘を掴んで家を出た。

だけど今は折りたたみ傘がとても好きになった。撥水お化けな折りたたみ傘のおかげだ。この傘の素晴らしいところは「撥水お化け」の二つ名に相応しい撥水性にあった。たたんで小一時間待たず鞄に入れても問題ないくらいに表面が乾いている。素敵。持ち手が長傘のように湾曲していて持ちやすいのもいい。リュックの背負い紐やショルダーバッグの紐に掛けておけば両手が空く。しかも持ち手は木製だ。木に触れているという安心感は侮れない。欠点を挙げるとすれば、大きなバッグでないと入らないところ。でも大きさは雨の凌ぎやすさに比例するところもあるのでそこまで気にならない。私はおそらくマキシマリストだ。

折りたたみ傘に対するアクションとしてどうかとも思うが、荒野にひとり放り出されたら、傘をぎゅっと抱きしめて「だーいすき!」と言いたいくらいには気に入っている。普段は心の中で叫ぶに留めているけれど。

折りたたみ傘にかなりストレスを感じていて、それを解消するならいっそ傘として突き抜けた価格帯のものを買うかなあ(そうすれば使わざるを得ないだろうし)と思った戦略が良かったみたい。我ながら良い買い物をしたと思って、これから長く愛用したい。長傘もいずれはアップデートして、同じくらいの大好きさで両方とも使えるようになりたいと思っているところだ。

【あんスタ】AdamとEveのバレンタインイベ楽曲

 乱凪砂、七種茨のAdam、巴日和、漣ジュンのEveの二曲セットで展開された2023年バレンタインイベントの楽曲がリリースされたぞ~~~うわ~~~い!(当日までリリース日知らなかった。Ra*bitsのハレノヒ Sugar Waveはリリース日も押さえておくほど気になっていたのに!)

 早速聴きます。

 

Adam「Melting Rouge Soul」

Adam「Melting Rouge Soul」 あんさんぶるスターズ!! Music ゲームサイズMV - YouTube

 最初に書いておくと、ゲームで叩くならRuby Love派だったのですが、フルで聴くとちょっとわからない。どちらも好きが拮抗するぐらいにはMelting Rouge Soulが引きあがりました。ゲームサイズはちょっと忙しすぎるのよね。この曲はフルでゆったりたっぷり聴くのが個人的には好きです。

 茨の声が強すぎる(褒めている)。声と性格が合っているよなあ…と惚れ惚れしてしまいます。反発と協調のグラデーションをAdamとEveでそれぞれつけていて、今回はAdamが割とぱっきり分かれ、Eveがその分協調、同一化するような雰囲気かと思いました。アダムとイブという言葉そのままで考えるなら、茨も凪砂もイブっぽくてもいいのになあ、と思うけどそこはアダムなんだよな、面白。逆に日和やジュンがアダムっぽいのに、この二つのユニット、とても不思議だなと常々思います。茨のつよボイスにナギ先輩のグレーな声が絡まっていく上質な音楽空間。Adamの強みのひとつかと思います。

あと、さらっと流してたけど、

「願い事のまま祈ってるだけじゃ 見向きさえされないとわかってしまった」

という出だし、なかなかすごいな。なんかAdamが歌うと弱音には聞こえないんだよな。決意なのよな。

 

Eve「Ruby Love」

Eve「Ruby Love」 あんさんぶるスターズ!! Music ゲームサイズMV - YouTube

EveのRuby Loveのミュージックビデオちゃんと見てなかったと思って歌詞を確認しつつ視聴。もちろんEveのこと好きで、だけどめっちゃ好きな人の好きには劣るだろうなあと思いつつ、この二人の対称性とか雰囲気とか好きだなあと思うし何より声が良い。

「どうかその恋が無事実ることを願って」

なんて素敵な歌詞なんでしょう。

 漣ジュンの繊細な歌声にうっとりしてしまった。歌うま…。キャスティング最高。サビで針金のようにびしっと高いところに一本通った漣ジュンの声に、日和の比較してぼんやりと滲んだ歌声(日和の声がぼんやりしていると思ったことはないけど、ジュンの今回の声に対して、ってことね)が添っていい具合に聞こえる。なんというか、漣ジュンの声だけだと強さをより感じるところに、日和の歌声を重ねることでマイルドになると思うのよね。Adamとの違いは、添わせる声をはっきり区別するか寄せるかではないか。色っぽい~、人を誘惑していく声だ~、ときゃあきゃあ言いながら聴いてしまう。

 

 ということで、先述した通り、ゲームサイズでは両者を比較しようと思わなかったのですが、フル版だとより二曲の違いが明確になり、かつ、対で聴く気分になりましたので、とても楽しいです。二つの系統の異なるチョコが詰まったボックスを食べているような至福のひとときです。こうでなきゃ。

 

Melting Rouge Soul

Melting Rouge Soul

  • Adam/乱 凪砂(CV.諏訪部 順一)、七種 茨(CV.逢坂 良太)
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

Ruby Love

Ruby Love

  • Eve/巴 日和(CV.花江 夏樹)、漣 ジュン(CV.内田 雄馬)
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes