根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【音楽】少しだけ体を浮かせてみる/Billlieのtrampolineを聴いて

 「大人」になって事あるごとに驚くことがありまして、それは「自分の体が重い」ってことです。

 それは「大人」の適正体重より幾分重ためなフィジカルを持っている、こととは話が別で、何と比べて重いかって、「私が思っている」より自分の体は重いのです。じゃあ私はどの重さを記憶に感覚に有しているかというと、「子ども」の頃の身体感覚を未だ引きずっているのではないか、ということです。昔はもっと体を動かせたよな、走るとき(私は時々ジョグをします)軽かったよな、坂道を上がるときこんなにきつくなかったよな、そういうことです。ちなみに余談ですが、私はよく泳ぎます。泳ぐときにも、違和感を感じることがあります。でもそれは重たさの感覚ではなく、単純に筋肉の衰えです。特に肩と腕の力がバリバリ泳いでいた頃よりはずっと低下している。泳いでいる分には自分の体の重たさは気にしなくていいので個人的には楽です。筋肉は鍛えれば幾分戻るので。

 

 多分今、トランポリンで遊んだならば、私は自分の体の重さを如実に感じるでしょう。でも、跳ねるのって楽しそうだなあ…なんてことを、この曲を聴きながら考えていました。Billlieのtrampolineです。

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 trampolineで歌われていることが性に合っているということもあるし、真ん中よりちょっとローなテンションで聴いていて無理なく聴けるメロディというのもめちゃめちゃ気に入っています。Billlieが10月にリリースしたアルバムは、個人的にかなり印象に残ったアルバムでした。

 trampolineで歌われているのは、行き詰まった世界にほんの少しだけ風穴を開けるきっかけとして「トランポリン」的に考える、「トランポリン」の視点を思い出す、あるいは、子どもの頃はもっと単純に跳ねること、跳ねたとき世界がちょっとだけ遠く低く見えることの面白さを楽しめていたよね、それ、覚えてる?みたいなことだと思っています。激しく同意(でも、私トランポリンで遊んだことあるかしら…)。

 

 生きていると実に様々な問題があるのですが、時々それらの問題を引いて見てみる。別の角度から眺める。違う見え方がある。そこから明らかになるのは、物事は多面的で解釈は様々で、決して絶対的なものはないということで、例えばそれに対する私のネガティブな解釈の、程度が軽減したりすることもある、ということです。極端なこと言うと、死ななくてよくなる

 私の家にはトランポリンはないですが、何かトランポリン的になれるものはあるだろうか。ちょっと考えてみることにします。

 私はトランポリン一つでそこまでは考えないので、trampolineが面白い曲だなと思いました。それをtrampolineでおしゃれで落ち着いたテイストでまとめているのはもっとすごい、とも。そしてさらには、こういう曲を見事に歌いこなしているBilllieに、グループとしての成熟(という表現はあんまり好きじゃないけど)を感じました。なんというか、キャリアを経て溜まっていたエネルギーがうまい具合に曲に乗っている感じ?

 LIVEの映像を視聴していると、Billlieはそれぞれ異なる声を持つ人が集まっているから聴いていて面白いし、ボーカルの安定感もあるなあ…と思いました。ハードに、そして表現力たっぷりなパフォーマンスもこのグループの魅力ではあるけれど、chillなときのボーカルも注目されてほしいと思います。

【雑談】闇堕ちの過程/崎山蒼志の燈を聴きながら

 数ヶ月前に崎山蒼志の「燈」という曲を知り「良い曲だなあ…」としみじみして、一、二か月が経った今日、「闇堕ちというのはこういう風になるのだろう」ということを考えると共に、もう一度「燈」のことを思い出していた。

 書き手の私が現在多忙な状況で、いや、多忙というよりは肉体的精神的に余裕がないというのが正しいのだが(とはいえこのようなテキストを書く力があるのでまだまだ平気そうだが)そういう日々を送る中で「まじで病んだら困るで〜面倒だ〜嫌だ〜病みたくない〜」ということを考えている。「うつ病 予防」とか調べた。それはさておき。

 燈はアニメ呪術廻戦の主題歌らしい。この作品を観て(読んで)おらず、インターネットに散らばる情報を集めた限りの知識になるけども、夏油さんという人の存在が自ずと散らつく曲らしい。夏油さん。安易な言葉で表現するならば、彼は闇堕ちした人。

 夏油さんについて考えていた。

 彼が変わっていく過程を読んだわけでもない(一応きっかけとなる出来事たちは聞き齧っている)。が、あながち的外れな想像でもないと思うのだ、人が闇に堕ちる時は、必ずといっていいほど強烈なプレッシャーに伴う視野狭窄と余裕のなさがあるのではないか。

 強烈なストレス。それに対処していくうちに体力が消耗し、動きが鈍麻していく。日常生活が鈍ってくる。頭が回らなくなる。動揺する。余裕がなくなっていく。どんどんなくなっていく。視野が狭まる。極端で明快な結論に手を伸ばす。それが自分を救ってくれるものだと信じたくなる。ついにそれを、信じてしまう。(私「(現在進行中で私やん…)」)

 疲れていると思考能力が鈍るので、その時に下した判断が「正しい」可能性は平時より低くなるだろう。そして、疲れていて楽になりたいのでとにかく何か板にしがみつきたくなるのだ。わかりやすい板に。

 夏油さんがそういう道を辿ったと言いたいわけではない。私が気になっているのは「燈」の冒頭の歌詞「僕の善意が壊れてゆく前に 君に全部告げるべきだった」という告白である。

 言えるわけないだろ!

 今日私は、そう思ってしまったわけである。「燈」を聴きながらツッコミを入れてしまった。

 言えていたら、こんなことになってない。夏油さんもそうだったんじゃないかな。君に全部告げることより壊れることの方が容易かったから。その結末が地獄だとしても、それを選ばざるを得ないくらい、人は追い込まれると判断がつかなくなるのではないか。

 私にとって救いなのは、既に「闇堕ち」という事例が世界にたくさんあるということだ。そのおかげで私は闇堕ちしなくて済むのよ、とまでは言い切れないけれど、闇堕ちの過程を知っているというのは、それだけで一定の効力を持つと思う。まあ、闇堕ちする可能性はあるが…。というか既に闇落ちしている可能性もなくはないが…。まあ、こういう文章を書いているので平気だろう。

 

 「燈」を聴いている。燈を、私を、失わないように。

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【文房具】システム手帳 A5サイズ

 7月あたりからシステム手帳A5サイズを導入して3カ月くらい、試行錯誤しながら、より良い使い方を模索しています。

 A5サイズに限った話を言えば、バインダー+ルーズリーフというものがあるわけで、システム手帳とバインダー、何が違うねん、と心の中でずっと思っていたのですが、今朝、ようやく答えが出たような気がします。単純なことです。

  1. システム手帳はカバーにポケットがついていることがあるが、バインダーにはない
  2. システム手帳はカバーに重厚感があるが、バインダーにはない
  3. システム手帳のリフィルには様々なものがあるが、バインダーのリフィルはまだそこまで種類がない
  4. システム手帳のリングより、バインダーのリングの数が多い

 ただ何かを書くという点においては、両者はそこまで変わらないと思いました。地味にリングの数というのは無視できないポイントではあるのですが。というのも、リングというのは手に当たる当たらないに関わらず、見た目的な圧迫感があるように思われるので。

 めちゃめちゃ書き込みたいのであれば、バインダーでもいいと思うのですが(それこそ学習ノート的に使う)私の用途は、もう少し「システム手帳寄り」なので、現状システム手帳に落ち着いています。

 では、用途は何か。

  1. 一日一枚好きなことを好きなように書き込むページ
  2. ノートに書くほどでもないカジュアルな調べものや考えたこと
  3. 調べたいことリスト
  4. 様々な「プロジェクト」
  5. 視聴した動画リスト

 こんな感じです。スケジュールは何も管理していないです。コンセプトとしては「これを開けば私が私らしく入れる回帰的手帳」です。

 やっぱり、しょうもないことを紙とペンを使って書き出して整理して考えている時間が好きといいますか、しっくりくる自分です。で、日常生活を送っていると、必ずしもそういう自分で居れないことも多く、「ああ、私って最終的にはこんな感じでこれが安心」と思い出させてくれる場所が必要でした。

 少し遠い場所にお出かけするときも、自分を取り戻すというか、すっきりする感覚があるのですが、毎度毎度それをやるわけにもいかないので、とりあえず手帳にそういう「私だけの庭」みたいなものを作ろうと思いました。というか、結果的にそうなっていました。

 今もまだ実験途中ですが、一日一枚無地のページを使って、好きなように好きなことを書いています。よくTODOリストとか、その場で思いついたことを書いています。気になる本とか、これやってみたいなと思うこととか、とにかく何でも。あくまで「紙一枚」なので、腰を据えてもっと考えたいことがあれば、別に一枚紙を使うか、日記ぽく使っているMDノートジャーナルに書き出します。ルーズリーフ然り、紙一枚というのは、じっくり考え事を書き出すにはぴんと来ていないところがあります(これは私の謎のこだわり)。

 様々な「プロジェクト」というのは、中長期的にやりたいことになります。具体例を言うと、私は今、自分が使っている様々なサービスをまとめたリストみたいなものを作りたいのですが(自分が死んだときの為に)これは、時間がかかりそう、少しずつやりたいなと思うので「プロジェクト」と称して管理しています。仕事みたい。仕事にならない仕事みたいな作業が気楽で好き。

 視聴した動画リストは、別にあらゆる動画を記録するわけじゃなくて、リスト化したいカテゴリがあるのでそれをまとめている感じです。

 

 システム手帳というのは、気楽でいいものです。飽き性で日がな考え方がころころ変わる人間としては、この気楽さは本当に大切なものになります。思いついたことは(可能な限り)挑戦し、駄目なら駄目でいい。これからもその気楽さを大事に、A5サイズのシステム手帳をカスタマイズしたいと思います。5年ぐらい使えた暁には、ちょっといい手帳カバーでも買ってしまおうかな(わくわく)。

2024年10月

2024年10月12日(土) スンハンが帰ってくる

 RIIZEはいつだったか、とりあえずスンハンが活動休止してから知ったから、Get A GuitarのMVに出てた人、なんか最近の楽曲に出てないけど何? から始まった。

 10か月とか、そういう月日らしい。あまりにも長すぎませんか。ああ、これは「禊」の期間として長すぎる、妥当じゃない、と言いたいわけではなく、人の一生のうち、ましてやアイドルという職業の10か月の空白って、あまりに長すぎる。というかRIIZEというグループの歴史にとってその空白はあまりに長い。ここ最近のグループの動きを見ながら。既存メンバーとのギャップもどんどん生まれるだろう。そこをどう補填していくのか、この先の楽しみのひとつではある。

 分断が生まれている。その分断はなかなか埋まらないのだろうと思う。分断を癒そうと思わない限り。そして人は、人に歩み寄ることよりも自分の意見を固持した方が楽な場合も多い。時の経過を待つ他ないか。

 それにしても過激な反応に対してメンバーへの負担が心配だ。本当に、世の中、辛い言葉が多い。悪いことを悪いと思うことは悪いことではないが、何をどうして悪いと思うかの内省と、悪いと思った上で自分がとれる行動をきちんと考えられているのか。疑問だ。葬式用の?花輪を送るのが、「本当に」ちょうど良い行動なのかな。でもそれも一部の限定的な反応と、言える? あたかもそれが一般大衆の意見かというと留保が必要か。落ち着いて。その行為は、人を本当に殺めるよ。死なせてからでは、遅いよ。

 

2024年10月6日(日) NEW DANCEを聴けない日もある

 朝昼に散歩するとき聴いていて気持ちがよいのはXGのNEW DANCEで、でもNEW DANCEを聴く気分にちっともなれない日が少なくなくて、ある種のリトマス試験紙みたいだ。聴きたくなければ聴かない。聴きたい日は聴く。いつかは聴きたいと思う日が来ることを知っているから、落ち込む必要も「そんな日が来るかしら」と怖がる必要もない。

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2024年10月5日(土) 

 Xじゃ短いのよなあ、と思い、と当然始めるこの試み。1か月1記事にして更新したら記事数も増えなくていいのではないか(ブログの記事数をあんまり増やしたくないという、意味が分からない思考に囚われている)。10月中に思ったことはこちらに都度都度更新していくか。

 ASTROのCandy Sugar Popのミュージックビデオを本当にたまたま見てて、もうこの人はこの世にはいないのだよなあ、と思ったりしている。そういう形でムンビンをはじめ私の好きなアーティストことを偲ぶのは、うしろめたさがある。こういう形で彼ら彼女らは偲ばれたいのか、みたいな。

 言葉とか風景というのはからだに溜まっていくもので、例えばFF10のユウナの最後の「いなくなってしまった人たちのこと~」というのは、自分の中の規範みたいになっている。

 亡くなった者をどう「定義」するのかは、生きている者の特権で、だから故人についてはあんまり言葉にせず、感覚的に直感的に、思い出に浸ることに留めたい気もする。

【文房具】収集した言葉のノートが終わる

 EDiTの赤いノートを「収集した言葉のノート」として使うようになって、果たしてどれぐらい経ったのかわからないのだけれど、最後のページにいよいよたどり着きます。そのノートに書き写した小説を読んだのが3年前とかそのあたりなので、もしかしたら3年ぐらい続いているノートなのかもしれません。じっくりゆっくり、続いた試みです(それは私にとってすごく珍しいことなのだけど)。

 

 ただ、私の中でぴんときた言葉、というか文章を、書き写すだけのノートでした。小説の一節が多かったけれど、例えばSNSで見かけた見ず知らずの人の投稿とか、あるいは、好きな曲の歌詞をまるまる一曲書き写したり、詩を書き写すこともありました。

 

 この試みが、私の中で何か明らかに変化をもたらしたかというと、それは残念ながら「無い」と言えると思います。言葉をかき集めても、私が素晴らしくなるわけではなかったし、行動が変わるわけでもなさそう。でも、ここまで生きてきて思うのは、変化はすぐに目に見える形では表れないということだったり、必ずしも自分にとって益にならなければならないというわけではないことだったり、つまり、書き写したいと思ったのなら、書き写せばそれでいいのだと思っています。

 書いたところで、このノートを読み返すことは滅多にありません。どうして私はこれを書き写そうと思ったのだろうと、わからなくなることも多い。が、そうだな、「懐かしい」と思います。私は経験がないけれど、前向きに恋人関係を解消した相手との再会、みたいな? それはちょっと、美化しすぎか。

 

 二代目のノートは既に確保済みですけども、続くのかはよくわかりません。書き写したいと思ったときにそれを受けとめる皿が欲しいです。

 書いたって無駄ですよ。ノートはいずれ捨ててしまうかもしれない。今はとりあえず書き写したいし、ノートを捨てるつもりはない。そういう気持ちで進んだ先に何があるのか、でもやっぱりいずれは捨てないといけないですね…。まあ、今ではないか。

 二代目でも続けるならば、日付だけは書いておきましょう。いつの私がそれを書き写したのか(書き写そうと思ったのか)は、知りたいですから。

【買い物】さながら一枚のチョコレートのよう

 XGが2枚目のMini Albumをリリースするようで、どういう曲が収録されるのか、何もわかったものではないけれど、「えー買う」と思う今日この頃である。

 「じゃあ、買うかあ、またCDショップ行こー」と思って楽しみな私。あれ、ネットで注文すればいいじゃん、どうしてしないの?と、思った。思った瞬間に「だって、あれですよ、チョコレートのワクワクですよ」と答えている私がいた。

 映像作品を観ていると、とある何気ないシーンが身体に強烈に刻まれることは往々にしてあるわけで、私はそれが溜まっていくのを見守ることがとても好きだ。刻まれるかどうかは完全にランダムで、私が自発的に「このシーンは覚えていよう!」と努力してできるものではない。ゲームのガチャを引くような、運を天に委ねる感覚。私たちは様々なガチャを引き続けていると思うことがあるが、映像もまたガチャのひとつだ(そしてそれは引けなかったから悪いことが起こるといった、利得とはなんら関係のない、気楽なガチャなわけだが)。

 で、私がストックしている映像を引っ張り出してみよう。

 映画『チャーリーとチョコレート工場』の、冒頭、チャーリー君が彼にとっては本当に重たいお金で、店までチョコレートを買いに行くシーンだ。個人的には1回目の買い物を推したい。私はあのシーンを見て、

  • 同じ金額であっても、人によって重さがまったく違うということ
  • 自分の気持ちがこもった買い物はかけがえのないもので素敵であるということ

を知る。 

 以来、私はあのシーンのチャーリーのように、切実で、実存がかかっているといってもいいぐらいの真剣さで買い物をすることは滅多に無いにせよ、気持ちのこもった買い物ってのはいいもんだなー、と思いながら生きるようになる。なので、マジの買い物をネットで済ますのは、いまだに抵抗がある。

 そうやって一つ拘れるのは、私がそういう環境に生きているから、というのは重々承知している。住む場所が異なれば、たぶん信条も変わっていくだろう。

 が、今のところ、私の信条に沿って買い物ができるのならば、続けられる限りは続けたいと思う。マジの買い物は、自分の足で店に行ってやりたい

 さて、XGがアルバムをリリースするらしい。先にも書いた通り、私はその内容をまるで知らない。しかし、私がエキサイトする曲であるのは、揺るがない(XGへのちょっとした信頼と、ささやかな応援)。なので私はXGのアルバムを買うだろう。サブスクで新譜をいの一番に聴けたとしても、買うだろう。それはXGの音楽が、チャーリーにとってのチョコレートみたいなものだからだ。

 チャーリーのチョコレートのようなものを日々増やしていくことは、生きる上で楽しいことであると、私は思っている。

【NEWS】Happy Birthdayと存在の祝福

 NEWSの楽曲が、各サブスクリプションサービスで聴けるようになり、私がまず聴いたのは「太陽のナミダ」で、次に聴いたのは「Happy Birthday」でした。

open.spotify.com

 

 そのときの感想を引用してみます。

 

 NEWSのHappy Birthdayは、今言語化するなら「化粧水のように染み渡る自己存在肯定感」なのだと思う。表現が難しいけれど、自分が存在するということが、誰かからすれば尊いらしい、という状況もあり得る、という視点の獲得でした。

 

 これらは普通に考えれば私にとってまともに受け止められないことなのだけど、この穏やかかつ軽やかな曲調が喉を通りやすくしている感じがして、屈託なく飲み込めるところが昔からとても好きです。

 

 これに尽きるから、これ以上のことは書けない気もします。

 

 大切なのは、「自分が存在するということが、誰かからすれば尊いらしい、という状況もあり得る」というところです。

 自分の中ですごく屈折しているところなのですが、昔から「親に扶養される」ということについてずっと考えていて、そこには愛情だけでは片付けられない、それこそ義務感みたいなものもあるのだろうなあ、と思いながら、あまりに受け取りすぎている状況に耐えがたいと思うときがあって、そういうときに一つの見方として、私が理解できない考え方で以て他人と関わろうとすることが人間には往々にしてあり、それを理解できてもいいし、理解できなくてもいいけれど、存在は知ろうとすること、というのを考えたことがありました。

 私は自分の生を肯定できないが、私以外の誰かは肯定しうる。そういうのをこの「Happy Birthday」という曲から考えて(中学三年生とかその辺か)何より、ポップで軽やかなメロディがすごく好きでした。

 この曲の好きポイントは結構ありますけど、強いて一つ挙げるなら、最後のサビ前に「神様のプレゼント 君のHappy Birthday 君の未来に幸あれ」というところでしょうか。ここ、「僕が君を幸せにするよ」って言わないところが最高に好きです。言い方もおしゃれだし。当時すごく安心したなあ。だってそれは、私が私を幸せにする余地が残されているから。私があなたに幸せにしてもらわなくてもいい余地があるから。なんというか、そこ限定しないでほしい(笑)と思ってしまう子どもだったかもしれない。

 私が私の存在を祝福できなくても、するつもりがなくても、私の存在を祝福する可能性はある。それが生きる上ですごくいいアイデアになったと思います(祝福できないといいつつ、否定するつもりもないのですけどね)。今でも好きな曲のひとつです。とはいえ、誕生日ってもうちょい軽やかでもいいですけどね。