根津と時々、晴天なり

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【tripleS】Girls Never Dieを視聴する/その痛みはフィクションなのか

 「なんだっけか、tripleSってユニットで活動していた多人数グループがついに全員そろったらしい?聴いてみるか~」から始まり、この文章を書き始めるまでに1時間経たなかったな、tripleSのGirls Never Dieについて考えます。

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 前提として、私はtripleSのことを何も知りません。ユニットがあったのは知っているけれど、メンバーも知らないし事務所も知らない。プロデューサーは知っているけれど…このグループが成り立つ経緯を何も知らないのでこの辺りは触れずに、フレッシュな通行人の意見として書きます。この状態での感想って貴重だし、あとから読み返すと面白いこともあるから、積極的に残していきたい。

 

 まず、音楽単体から。落ち着いて平坦な聴きやすい曲だなと思った。「肩肘張っていない、これがデビュー曲?って嬉しいなあ」と思うような曲。このメッセージであればもう少し違うテイストにもできるのに。聴き終えて今さら振り返るけれど、シャウトらしいシャウトってない?よな。いや、あるにはあるけれど、演出として「ここから良いところ!」という見せ方をしていない、つまり聴く側も「OKOK来るのね、受けて立とうじゃないか」みたいな心構えが不要な曲。特定の誰かにスポットライトを当てることはしない、という方針が透けて見える。ええ、ええ、わかります。黒と白って感じがした。ルセラのデビュー曲は彩度の高い黒白って感じがしたけど、こちらはもっと低くした黒白。

 

 で、だ。問題はここからだ。ミュージックビデオだ。率直に書くと「滅入った」。滅入る。それは映像の内容が悪いとかそういうことではなく、単純に色々考えることがあって、それが私を落ち込ませた。音楽だけならこの文章を書かなくても良かったけれど、映像を見てしまったからには、書かないとどうしようもない(し、書いたら色々な発見があるだろうな)と思ったので、この文章を書いているというわけだ。

 最初に通して見て思ったのは「これは成功しなければならないけれど、成功する保証はどこにもない」ということだった。言っていることだけで見れば至極当然のことかもしれないが、私はさらに思う。「この曲を歌うからには、成功しないと嘘だ」と。

 これは保守的な考えなのだろう、「成功しなかったらどうするの」と思う自分がいて、すごい嫌になった。うっせーよバカヤローが、と自分に対して思った。これは決意なんだよ、成功するかどうかなんて知らねえ、でも歌うしかないんだよ。歌っていいんだよ。

 別グループになるけども、XGについて考えていた。XGはTippy Toesで世界へ挑戦する心を歌った。私は、そこで歌った挑戦が成功するか失敗するかどちらになるかなんて、深くは考えない。XGが進む道を応援したいし見守りたい、結果的にどうなるかなんて誰もわからないし、その道のりが既に尊いものであるわけだから。

 では、どうしてtriple Sに過剰に反応しているかというと、やっぱり映像のメッセージ性に尽きるだろう。そこには余りある切実さが込められている。これだけの「背景」があってそれでうまくいかなかったらそれこそ実存を疑うじゃん、と(巴マミの「死ぬしかないじゃない!」が脳内で再生される)。ミュージックビデオに過剰に感情移入してしまった、ということでしょうね。怖えな(自分が)。

 

 MVを見ていて思い出したのは、AKB48大声ダイヤモンドと、加藤ミリヤであった。厄介な組み合わせだ。そして私の年齢もばれる。まあ、それはさておいて。

 考えていたのは、自身の学校生活のことだった。24人というと、あくまで私の中のイメージだけど、その学校が普通校の共学だとすると、一つの学級の女子生徒の人数よりは多いと思う。学校という空間で、級友とコミュニケーションが取れないわけでもなく、いじめられるわけでも疎外されるわけでもないけど、多人数間のコミュニケーションに気が張りすぎて脂汗が出る人間としては、AKB48的な同世代多人数集団の窮屈さばかり思い出してしまい、見てて古傷が痛んだ。これはこちらの話であり、tripleSの問題ではないですが…。メンバー間ってどうやってコミュニケーション取っているのだろう。SMエンタのNCTとかにも思うことなのだけど。

 大声ダイヤモンドとか言い訳Maybeとかの、世界があってその中の私たちの世界の、仲睦まじいルール、秩序。Girls Never DieのMVの中である、捨てられたオフィスのフロアを占有して私たちだけの王国をつくっている感じは、女の子たちの独特のルールを感じて、私はそれがちょっぴり苦手だ。

 

 私たちが好きなものを持ち込んでメイクだってしちゃう、どうしてそれをしなければならないのかというと、外の世界は危険でいっぱい、生きるのが苦しいから。

 切実さがある。痛みがある。ラベルを剥がした2リットルのペットボトルの水、ゴミが捨てられない部屋、カップ麺、カラスの死骸や手のひらを這う蟻という生々しさによってさらに説得力を持つ。

 

 カラス(もしかしてカラスじゃないのかな)というものがどういうニュアンスで用いられているかわからないけれど、禍々しさとか、街の厄介者という意味合いを加味して、tripleSのメンバー=カラス、ということにしたのだろうか。私はカラスが醜いとは思わないけど、疎まれても存在を否定されても、空をたくましく羽ばたき貪欲に生きる利口なカラスのようにこれからやっていきまっせ、という決意表明だと受け取りました(不死鳥という言葉もありますな)。

 

 Girls Never Dieで描かれたどん底がかなりの底で、ここがスタートであるに違いはないけれど、何度も「ここ」に落ちていいわけじゃないからな????とは思った。物事上手くいくことばかりじゃない。だから落ちたらもう一度やり直せばいい。でも、深みに落ちたら駄目だ、浅いところで済ませよう、落ちすぎずに済む強さを持ちたい。

 

 このMVがキャリアの途中でリリースされていたらまた受け取り方は違って、この切実さはフィクションと現実のハイブリッドとして受容できたかもしれない。けれど、待ちに待ったデビュー作としてリリースするのとでは、フィクション要素を凌駕する現実の重さがあり、説得力が段違いになる。BTSが途中でI NEED Uを出したのとは違う(私はこの曲からもそれなりのメッセージ性を受けてしまうけど、彼らがこの曲をリリースしたのはデビューの時ではない)。

 

 tripleSに限らず、自身の痛みをどのように表現するのか、ということは定期的に考える。私が歌うのであれば、私が言葉を紡ぐのであれば、私の痛みは私の痛みとして誰にも侵されることなく世界に届けられるが、他者によるプロデュースの比率が高ければ高いほど、その痛みは私のものなのか、それとも他者から「想像せよ」と差し出されたものなのか、わからなくなりそうだ。ナイーブな感情は聴く人に強く働きかけ、大きな感情を引き起こすが、そのトリガーとなるナイーブな感情の出所をどう考えるのか、私には難しいと感じる。プロデュースされるにあたり「想像せよ」「表現せよ」と差し出された感情が、痛みなら駄目で喜びならOKである理由もないかもしれない。ただ思うに、喜びが人を損なうことはあまりないけれど、痛みや悲しみは人を損なわせ、扱いには注意を要するというのはあって、だから直感的に、人のデリケートな部分に訴えかけてプロデュースされながら曲が作られることに、危機感を感じるのかもしれない。

 

 その痛みがフィクションだとは言わせない。でも、私はこの曲のミュージックビデオをフィクションとして理解しなければならない。描かれていることが「実際に」彼女たちに起こったことではないから。私が過剰に反応したのは、おそらく映像としてのフィクション性と、「ユニットとして少人数で活動はしてきた中で満を持してのデビュー曲」というリアリティにある想像可能な切実さの切り分けの難しさ、その混乱によるものではないかと、思った。冷静に考えれば、この曲は恋をしている(恋をしてきた)者が歌うラブソングのように(あるいは失恋ソングのように)人間生活のリアリティと楽曲の虚構性をブレンドして味わえてもおかしくないが、テーマがそうさせないのだろうか。難しいな。

 

 大方考えたいことは考えられたと思う。他の人がGirls Never Dieのミュージックビデオを観てどう思ったのか知りたい。考えすぎたのかもしれない。シリアスになりすぎたのかもしれない。自分が馬鹿だったのかも。でも、猜疑心はシャットアウトして、それはそれで一つの感想として残しておこう。