根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】LINEが嫌い

 「私、友だちがいないんですよー」と開けっぴろげに切り出すのは、一つの戦略としてはありだと思うのだが、果たしてそんな風に堂々と言ってのけていいものなのだろうかと思う気持ちも拭えない。友だちはいた方が良いと思うから。ただ、この文章を書くにあたっては、友だちがいないことを書かないと進まないので書いてみる、という言い訳、の言い訳、の言い訳(エトセトラ)。

 友だちがいないので、私は普段、LINEというコミュニケーションツールをほとんど使わない。連絡も来ないし、私から連絡をすることもない。ただし、知り合いはいるので、その人たちと万が一連絡を取る際にLINEが必要である為、LINEをアンインストールすることはできない。通知1000件とか、私の人生には絶対にあり得ないだろう。そもそも1000人もの人と人生トータルで関わることなんてあるのか…無いだろ。

 このブログのコンセプトは、好きなことにとにかく言葉を尽くす、だが、今回は趣旨を変えて嫌いなことに言葉を尽くしてみようじゃないか。さて、やっていこう。私はLINEが嫌いです。この場合のLINEとはメッセージアプリのLINEであり、それ以上でも以下でもない。

 

 どれぐらい嫌いなのかというと、LINEアプリを動かしてホーム画面を表示させるだけで気持ちが悪くなるぐらいには嫌いだ。本当に気分が悪くなるので、必要でなければ絶対動かさないし、必要な場合は速攻で用件を済ませる。

 嫌いと書きながら考えているけれど、この気持ち悪さは、嫌い、ではなく、怖い、かもしれないなと思った。私はLINEが怖いのかもしれない。だから嫌いなのだ。

 怖い? 何が?では、何が嫌いなのかをまず言語化してみよう。

 「友だち」や「グループ」が一覧化されるのが嫌い。人間関係というのは時によってムラというものがどうしてもあるもので、昔は仲良かったけれど今はそれほど…という関係はざらにある。それは悪いことじゃない。でも、LINEでいちいちそれを思い知らされるのが苦痛すぎる。思い出したいときに思い出させてくれ。会いたくなったときに思い出させてくれ。用もないのに画面に表示させないでくれ、ということで便利な機能があるものですね、「友だち」については動かしていないものは大体非表示にしている。また、性分的に、何も悪いことはされていない人達をブロックするのが無理なので、非表示にしている。連絡は来ないのでそれで問題ない。全員を非表示にできればいいのだが、そうもいかないもので、比較的最近メッセージのやり取りがあった人については非表示にしない。ああ、辛い。願わくばすべて非表示にしたい。私はちゃんと覚えているから、私の好きなタイミングで引っ張りだす自由をくれ、と思う(まあ、一応その自由はある、私が非表示にしていないだけ)。

 LINEのUIはどうか。トーク画面をメールボックスみたいに分類化できたらいいなと思う。どうでもいいトーク、読み返したいトーク、みたいな。優先順位というよりは、そのトークに臨む際のマインドをそのカテゴリごと切り替えられるように。宅急便のメッセージにいちいち身構えたくなくて、宅急便のメッセージと、活発なやりとりをしたメッセージとでは、優劣以前に種類が違う。それらが混同されているのもまた不安。分類させろ。

 そもそもだ。「友だち」って呼称をやめてくれ、と思う。友だちじゃないんだが。せめて「知り合い」にしてくれ、と思う。でも知り合いは知り合いで「知り合いかも?」という謎のカテゴリがあるから困ったものである。私の友だち観が狭量、特殊が故の怒りのツッコミかもしれない。でも本当に「友だち」ってやめてくれ。友だちじゃない人もいるのだ。この人が友だちかどうかなんて、いちいち考えたくない。

 LINE 嫌い で検索すると、LINEでメッセージを返すのが嫌い、という内容でヒットすることも多い。LINEというアプリが嫌い、と、LINEでメッセージを返すのが嫌い、というのは別物である。別物であるが、私の場合は、LINEというアプリへの嫌悪感(というか恐怖感)がLINEでメッセージを返すのが嫌い、につながる部分がある。簡単な話で、LINEが嫌いなのでLINEというアプリからつい目を背けがちになり、結果としてメッセージを送るタイミングを見誤り、自己嫌悪に陥り、メッセージをやり取りすることも嫌になる、という流れだ。どうしてくれるんだ、LINEよ。

 メッセージのやりとりに苦手意識を抱くかというと、それは難しいところだ。確かに慣れていない相手だとメッセージに関してはそれはもうたっぷり考えまくるが、慣れてしまうとかなり条件反射的に、思考を停止したメッセージを書くことができる。失礼に思われたらそれでいいという開き直りを獲得できるまでの長さは、相手に寄るだろう。文章を考えること自体は苦手ではなく、その文章が相手にどう読まれるか、という、ただそれだけのことをずっと考えているので、メッセージのやり取り自体は嫌いではないだろう。

 ただ、これはLINEだけでなくメールやSNSのメッセージなど、あらゆる場所の受信に言えることだけれど、自分への「お手紙」はその内容がどういうものであれば緊張する。ドキドキする。どういうことが書かれているのか、今からそれを読んで反応しなければならないということがとても億劫に思える。昔の私はそれを「湖に投じられた石」と呼んだ(湖が、安定した状態の自分の心)。何にせよ石が投げられたということは、水面に波紋が広がるということで、私はその波紋にいつもドキドキするのだ。でも仕方がないことだ。人間は日々石を投げあっている。コミュニケーションというのは相互の石のやりとりのようなものである。なので、生きている限り避けられないことなのだと自分に言い聞かして日々頑張っている。仕事のメールとかも結構怖いのよなー。いっつもドキドキしてしまう。なのでLINEの通知にいつもびびっている。通知は切っているので、正確にはアプリのアイコンに赤い数字がつくだけだが。

 LINEが怖いのは、私自身が抱えているコミュニケーションの難しさも要因としてあるのだろう。悲しいことに、困難を、恐れを、LINEというアプリはあまり軽減してはくれない(それはそう)。なので、私はいつまでも「LINEは嫌い」と喚きながらLINEから完全に離れることはできない、中途半端な場所で呪詛を垂れ流す。

 

 いっそのこと、LINEはアンインストールしよう、と思わなくもない。「あれー、治野さん、連絡取れなくなっちゃった」と言われても構わない。今、連絡を取っていないのだもの、別にこれからも連絡しない。必要な人には電話番号を教えよう。それでいいじゃないか。今はそれが現実的ではないけれど、いよいよできるようになったら、私はLINEとおさらばするかもしれない。でも、今のところは、LINEという存在を私の頭の中で殺して、封印することでなんとか心の平穏を保っている(が、時々LINEに触ることがあると、発狂する)。