根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【SNS】私にとってのTwitterというツール

なんなん、あの犬

 「Twitterをやめよう!てか、一回やめてみます!(やめるのは投稿だけだけど、、、)」と思って、こういう文章を書くと「おおう、いよいよブチ切れるのかい?」と思われるかもしれないけれど、別にブチ切れてはいない。最初にその辺を書いておくと、無料で(その代わり、膨大なるアテンションエコノミーの光線に晒されているが)サービスを利用している以上起こりえることだと思っていました。いつ、そうなってもおかしくなかった、ただそれが今起こっただけのこと、という感じです。別に私の主義主張と異なる人が(人たちが?)サービスを運営していても、自問しながらその場にとどまり続けることは悪いことじゃないと思っていたので、だからTwitterを続けてきたわけだけど、いやいや、なんなん、あの犬。つまんな、って思ったし、そういうのが面白いと思っている人(人たち)と付き合うの普通にやだなと思って、そこが最後の一滴でした。例えば、リアルの人間関係でも、確かに主義主張と異なる人がいたとしても、その人の振る舞いによってはぜんぜん対話可能じゃん(てか人間ってそういう風に協力して生きてきたんじゃないの)って思っていまして、今回の犬はもう振る舞いの領域で私の中ではNo!って感じだったんだよな。私、お笑いあんまり得意じゃないんだ。

 で、何を考えたかそのプロセス(と言ってもシンプルな流れだけど)は、治野 on Tumblr に投稿してそれ以上語ることはないです。もしかしたらしれっと再開しているかもしれないですし。

 ただ、今回のはきっかけに過ぎず、私はずっと(それこそTwitterを利用するようになってからずっと)Twitterというツールの良さと動きづらさのようなものを感じていて、本当は以前から書いてみたかったものの書けなかった、私のTwitter観のようなものを書けたらいいなと思って筆をとった次第です。

 

1.書くことで考える人間

思考を脳内で先に言語化して話す人とそうでない人がいるというツイートにTwitterユーザーら盛り上がる : カラパイア

 この記事、私はめっちゃ面白いな~と思って読んだことがあって、私は思考を脳内で言語化していないタイプの人間です。今、タイピングしているこの文章も、頭の中でテキストになっているものを打っているわけではない。自分の指が自動的にするすると出力してくれている感じです。思考というのは開けてみないと中身のわからない箱のようなもので、出力して初めて「あ、そうなのね」という細部が見えてきます。もちろん大雑把な概念は頭の中に漂っていますが、そこに言葉を与えておらずなんとなく気配でしかわからないです。

 そうなると困るのが、自分にとって不快な経験をしたときで、「不快」という気配はなんとなくわかるけれど「何が不快だったのか」までは言葉にしてアウトプットしないと自分でもよくわからないなんてこともあります。

 たくさんの出力方法のうち、私は「書くこと」を多用してきました。文章とすることで、自分の考えていることを反芻するような、その作業は私が私であり、私として生きていく上で必要な行為だと思います。厳密には、私として楽しく生きていくために必要なことだと感じています。書かないとわからんので(まあ、わからない気になっている可能性はあるんですけど…)。

 ここでTwitterというツールが登場します。Twitterはぼそっと呟くように、自分の中で言葉を与えられていない概念を形にするのにぴったりでした。具体的に挙げると、

  1. 限られた文字数の中で伝えなければならないので、自ずと1ツイートにおけるトピックは限られてくる
  2. 不特定多数の人が見る空間故に、実際に人に話しかけるときのような緊張感がある
  3. 書いて投稿するだけというシンプルさ

他にも挙げられると思いますが、ぱっと思いつく限りだと以上3つのポイントは最初から「良いな~」と思って利用していました。Twitterしながら考える、ってのが本当にあったわけです。

 

2.人間は様々な面を有するからこその窮屈さ

 一方で、Twitterを利用するときは常に息苦しさのようなものも感じていました。

 そもそも私はTwitterはこのブログの延長で始めたものであり、動機としては「ブログで自分が呟いたことをタネに話を膨らませたい」に過ぎません。ツイートは私にとっての種でした。なので、何か特定のトピックに限定させるつもりもなかった。フォローという存在については「壁」と思うことにしました。スタンスとして、私は常に壁に向かって声を殺して叫んでいるのだ、と。ただその壁は常に自分を監視しているし、生きているし、だからそういう人たちを傷つけることは言ってはいけませんよ、と。この考えは例えフォローが0人でも1000人でも変わらないと思います(ブログも同様です)。フォローいただけることはもちろん嬉しいわけですし、もっとコミュニケーションをとるべきなんだろうなと思いながらそれができなかったのは、私の駄目なところなんだぞ、と思っています。

 そして、Twitterにはミュートやブロックという機能があり、ユーザーがある程度自分のタイムラインを調整できるのは承知の上で、自分のツイートが誰かのタイムラインに流れる様を想像するのは、当初から割と自分の中で負担でした。それは自分のツイートに引け目を感じているからとかではなく、私がとても「おしゃべり」かつ無秩序に喋っているのが量として表れるのが嫌だから、という理由です。でもTwitterってそういうアンビバレンスなツールなんだよなと思って、どうにかこうにか使っていました。書きながらどんどんあれもこれもと思いつきが広がっていくことが私は楽しいですけど、誰かにとってはそれは邪魔な情報なのではないかと、でも、こうして開かれた場で連投するからこそ思いつきが思いつきであるのだと、こればかりはすっきり解消することじゃないのだろうなと思っています。○○に特化したアカウント、というのはどうしても無理でした(このブログも同じように)。

 

3.Twitter的なもの、ブログ的なもの

 ということで、TwitterにはTwitterの良さがあるし、ブログにはブログの良さがあるという話です。いずれも無料でサービスを受けることができる以上、いつかは無くなってしまう場ですが、場がなくなっても、多分私はずっと書きながら考えていると思います。Twitterをコミュニケーションツールとして使用していなかったが故に「移るぞ~~~!」とできてしまうわけですが、いや、お前もっとコミュニケーションしなさいよ、というのは本当に今でもこれからも考えるところです。人見知りってのもあるんですけど、別離が苦手なんですよね、私が好きなものをほかの人たちはずっと好きでいるわけではないし、私が他のことを好きになっている間も、私が好きなことをずっと好きでいる人もいる、このすれ違いのようなものが頻繁に起こるから、どうも積極的に関われないという、うーむ、書くと(こうしてきちんと言語化したことはなかったので)我ながら女々しいというかなんというか…。

 途中でも書いたように、私の最初はこのはてなブログなので、今一度スタートに戻ったような、そういう感じです。またTwitterを利用することがあれば、また違ったスタイルで「考える」ことができるのではなかろうかと思います…楽しみ。そういう日が来ればいいのですが。