根津と時々、晴天なり

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【トラジャ】スケールの大きさにたまげた/Travis Japan「The Show」

 トラジャことTravis Japanが米国留学をするという。

 一報を知った時、率直に「え?」という声が出たし、長年彼らを追ってきたファンはそれ以上の戸惑いや動揺があることだろうと思います。驚いた一方で、脳の裏をよぎったのは「The Show」のパフォーマンスで、この曲、このパフォーマンス、私の中ではかなり好きの部類に入るのだけれど「彼らにはスケールの広さが似合うなあ」と感覚もまた同時に呼び起されたのでした。

 

Travis Japan「The Show」との出会い

 The Showはジャニーズのカウントダウンの動画で知りました。

 えー、めっちゃかっこいいのだが?

 東京ドームという広大な空間を己の手のひらに収めようと言わんばかりの宮近君の空間掌握力とか、七五三掛くんの出だしのパートの妖艶さとか、てか、金髪のえるくん歌える人では?高貴なのよ高貴とか、そのあとに黒髪松田君の登場でぴりっと場が引きしまるあのかっこよさとか、ピンクの髪色の吉澤くんとかチョーキュートやん、小悪魔的笑顔が憎らしいとか、うみんちゅさん(中村さん)の熱量とか、パート少ないけど伏し目がちな横顔がかっこよくて、オイコラもっと映せや、になった松倉くんとか、そんなこんなで、一気に「わー」と盛り上がった。

 

スケールの大きさにたまげる

 そしてThe Showという曲がとてもアガる曲で、めっちゃエンターテインメント感たっぷりの曲であることに驚きました。まさに舞台の上で披露するにふさわしい曲。これがジュニアの曲? 嘘だろ。もはやデビューを通り越して否定しがたいれっきとした一つのグループであり個性じゃないですか、になりました。トラジャ、体力があるなあ、スケールが大きいなあと思いました。

 

スケールの大きさと、密度の高さは表裏一体

 ジャニーズに様々な側面があると思っていて、劇場という空間で行われる「ショー」というのが気になっております。舞台があって観客席があって、というあの空間で行われるショーがとっても魅力的で楽しいものなのだと知ったのは、もしかしたらふぉ~ゆ~のふゆパラがきっかけでは? ドームとかアリーナというでかい会場では味わえない、クローズドで濃密で夢のような数時間は、これももしかしたらの話、私の気質に合っているのかもしれないなと感じます。

 トラジャにはその系譜を感じます。勝手に感じているだけですけれど。箱があって舞台があって観客席があって、豪華なセットや演出がなくても、自力で観客を圧倒し自身の世界に引き込むだけのエネルギーがあるグループなのではなかろうか…どうだろう。

 そう、そこまで考えて言葉にするなら、トラジャのスケールの大きさとは、一点に濃縮されたエネルギーの強さゆえのものではないか。それが爆ぜて一気に拡散するとあのスケールの大きさになるのではないか、つまりスケールの大きさとは密度の高さなのだ云々。

 面白いのは、これはTravis Japanだからこそ、7人がひとつのグループであるからこそのものであるということ。まだまだ世に知られてないからそれぞれのメンバーの個性は磨かれている途中、一人ひとりが今以上に大きくなったときにTravis Japanというグループがどうなるかは正直わからんね、という感じです。

 

Travis Japanに幸あれ

 さて、米国留学です。よくわからないけれど、既にジャニーズのアイドルグループとしては独自のカラーを確立してしまったように思えるトラジャは道のない荒野を歩くような感じでしょうけれど、それはかなり厳しい道程かもしれないですが、どうなるのだろう、わからんね、という感覚をワクワクするしかないでしょう。

 どのみち、今のトラジャがおとなしくすんなりテレビに出たとしても、全然そのスケール感が伝わらない気もします。なんと勿体ないことなんだ。それは彼らの問題というよりは、テレビという箱の問題なんだよな。確かに今、市井に生きる人がジャニーズのアイドルに気軽に触れるとしたらテレビなのでしょうが、別にテレビという箱が絶対ではない。それはエンタメの一部でしかなく、トラジャには自分たちのエンターテインメントを大きく大きくして、なんならテレビを巻き込んじゃうぜ☆くらいの気概でいてほしいくらいです。狭くならないでほしい。てか、この全国ツアー見に行きたかったよおおおおお。

 心身ともに健康で。またとない機会だと、私は思います。

 

おまけ

 トラジャの米国留学の一報に関しては予想できる通りたくさんの賛否両論があって、シンプルに大変だなと思う。どの意見もわかるしわからないし。ただ心構えとして一つだけ強く思うことがあって、そのことについて書きたい。

 それは「幻想に囚われていないですか?」ということ。

 これはそのままブーメランで私に跳ね返ってくることである。トラジャ、米国留学頑張って! これもある意味では私が作り出したファンタジーなのだから。幻想(ファンタジー)に囚われることが問題なのではなく、人は幻想してしまう生き物なのだと自覚できていますか?ということである。

 今年こそデビュー! そう願うファンの気持ち、わかる。てか私もそう思っている。今年デビューするのだろ?と思っている。でもそれは幻想だ。確定していない未来だ。私にとって確定していない未来ということ。シュレーディンガーの猫?

 私は自分にとって都合のよい幻想を意識的に(あるいは無意識に)選び取ってしまう。それを避けることは難しいけれど、そういうものなのだと時々思い出すことはできると思っている。

 今回の米国留学をめぐって、様々な憶測が広まっているように思う。それはどれも確証がなく事務所が正式にコメントしているわけではないことを、我々は弁える必要がある。真実かもしれないが、どれが真実なのかを知る術は私たちにはない。それは諦めないと。

 理にかなっていることが正しいとも限らない。情報がオープンでない以上、不完全な情報を元に組み立てた結論がいかに論理的でも、情報が不完全なら全然正しいわけがない。「推しがデビューすると思いきやアメリカに行ってしまうって!その真相は?」という卑近な話題が、例えば新型コロナウイルスをめぐる陰謀論などにつながっていく。構造としては「人が幻想を見る生き物である」という点で同じであるから。だから、幻想が膨らみ分裂して、制御不可になることがあろうものなら、それはとても怖いことであると私は感じている。

 

 という私の考えも、もちろん「幻想」なのだけどね。