根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】光のある方へ/私が考えるときに起こっていること

 常々疑問に思っていることを、整理してみたいと思う。

 これを読む人は脳内で考え事をするとき、言葉が先にあって発言するだろうか。あるいは、発言するときに初めて言葉になるだろうか。私は、おそらく後者だと思う。

 

 後者だからか、私は長年、小説というものが不思議でならなかった。どうして人間は考えていることをあんなにテキスト化しているのか。あんなたくさんの言葉、私の中にはないのだけど、と。幼い頃から不思議だなあと思っていた。

 「言葉で思考し、それを発言する」タイプと「発言する瞬間まで言葉ではない」タイプと二分してしまったが、おそらく他にもタイプはあるだろうと思う。

 とりあえず自分が後者だと仮定して、自分が考えていることをアウトプットするときの流れを、なるべく忠実に言語化してみたい。

 「思考する」と言っても、パターンが二つある。一つは、意識的に言葉を使って考えるとき。自分の中では「わざとっぽい考え事Timeだな…」と思っていたりする。たとえば、自分以外に誰かがいて、ちょっと考えてみましょうか、と言われて、みんなが考えている時間。こういうとき、私は日常的な思考時間とは違うスタイルであると感じる。あえて言葉を使っている、あえて説明できるように考えている時間。小説の地の文みたいに言葉で始まりから終わりまでを説明できるような思考。例えるなら、スーツを着ているモード。普段は私服なのに…。

 もう一つは、言葉を使わない思考。とりあえず言葉はない。たぶんない。何があるかというと、イメージ、か。予感とか、陽の光と言ってもいい。視覚における健常者である私は、目を閉じても明るさというのは何故かうっすらぼんやりわかるのだけど(そういうものですか? あと目の見えない方も明るさは識別できたりする話を聞いたことがあります)それと似ている。考え事をしているときに、「陽の光」のある方向があって、そこがなんか反応しているから、なんか考えているのだろうなというのがわかるというか。そして、言葉にするときは、その光あるところから言葉を引っ張り出す感じ(言語化してみるとマジで意味が分からんな…)。自分がどれぐらい考えているかは、「陽の光」の強度でわかると思う。しんどいときは、嫌な熱し方になる。

 

 思考から言葉を使って外に出す。その時間には違いがある。違いはどう説明するか。これは私の場合だけども、言葉が上手くでてこないとき、理由としては大きく二つあって「そのイメージを適切に表現する言葉が見つからない」か「あんまり考えてこなかったことを一から考えている」のどちらかだと思う。前者は言葉の意味や表現をストックしていけばどうにかなる。後者は、準備していない(素材がない)のだと思う。

 この文章は私がパソコンでぱちぱちタイミングしているわけだが、考える素材はあって、あとはそれをわかりやすい表現にする為にはどうしたらいいか、説明の順番はどうすればいいか、といったことを試行錯誤しながら書いているという感じだ。逆に言うと、この文章の元ネタがなければそもそも私はブログの記事を書こうとは思わないわけで、準備していなくて言葉に詰まるのは、他者とのコミュニケーションをとる場に限定されると思う。もし他人とぽんぽんとリズミカルに会話できているなら、大して考えていないか、元々前からたっぷり考えていたことを出しているに過ぎない。

 要は、元々イメージがあって、適切な表現の様式を持っているならば、ぽんぽんとアウトプットできます、ということである(私の場合)。

 

 旧Twitterは、私にとっては表現を探るためのいいツールである。私は、言葉にするまで自分が何を考えているのか具体的にわからないので、そういうとき旧Twitterは便利だ。投稿するつもりで(でも投稿はしない)誰かに対しての言葉をパズルのピースみたいに探る作業。あるいは他人のポストを見て自分の考えていることに肉付けをすることができる。

 他者の言葉でイメージに肉付けをする作業には注意が必要だ。私のイメージを表現するのに最適な言葉であるかはわからないからだ。慎重になる必要がある。実は間違っているなんてこともある。そのあたりの留保が必要という理解は、何故か昔から身につけていた気がする。思考というのは、所詮誰かの考えていることの借り物、寄せ集めなので、それを表現する言葉もまた同じく、と自然と考えたのかもしれない。「Twitterしながら考え事している」なんて表現があるならば、私の場合はこういう理屈です。本当にTwitterしながら、考え事している。自分の考えていることに、言葉を当てはめていっている。

 

 で、最後に書きたいことだけども、思考をイメージ的に行っているからか「言語化された思考」ということに慣れていない。小説の地の文に恐怖する。え、こういうこと、他の人間はやっているの、考えているの、怖い、となる。とはいえこの気づきも、自分の頭の中ではイメージで格納されているので忘れるというか、無意識下に収納されて、度々「こっわ」と思い出したりする。たとえば今日も。言葉にしないと評価ができないから「怖い」と思うことも、言葉にしてみて初めて可能なことなのです。イメージの状態では、分析も評価もできません(だから、ストレスに感じていることも一度言葉にしないと自分の中でケアできないってのが厄介なんですけどそれはさておき)。

 「自分は人の言葉の真意を考えるのが苦手で想像できない人間かもしれない」と思うことが度々ある一方で、その結果、実生活で具体的なトラブルや違和感があったかというと、それも違う。じゃあ、この「自分は人の言葉の真意を考えるのが苦手で想像できない人間かもしれない」と思うことの根底にあるものは、想像する力の弱さではなく、自分の思考スタイルではないか、というのが仮説です。私は思考をイメージを使って行いがちなので、自分の頭の中には言葉がない。でも、人の考えは言葉となって私に届く(もちろん言葉以外の方法で伝わることもあるけれど)。ここがポイントなのだろうな、と。

 要は、私も普段誰かと同じくらい考えているけども、それはイメージ的に考えているので自分の中で量として評価しにくい。何を考えているかもわからない。けれど、人の考えは言葉となって私に押し寄せてくる。え、他の人ってこんなに色々考えているの?と驚く(いや、たぶん私も言葉にしてないだけで色々考えていると思いますよ…)、という流れ。で、自分の中ではイメージ的に思考しているので、他の人も私が見ることのできない思考の氷山があることを、どうも感覚的に理解しづらい。たぶん自分が自分の思考を言葉という形で把握できたなら、「自分は人の言葉の真意を考えるのが苦手で想像できない人間かもしれない」と思うことはなかったのでは…。あ、他の人も私みたいに(言葉で以て)考えているわよね、おしまい、になりそう。

 思考しているということを、自分は実感しづらいのかなと思う。途中で「言葉にしないと評価できない」という表現はこの文章を書いてて見つけたもので、結構正しいことを言っていると思う。感覚的に理解することが強いからか、自分が直感的に理解していることを言葉に起こし直すことがマジで面倒って思うこともあるけれど、言葉にして初めてそれが何なのかわかり、評価し、磨いていくことができると思うと、言語化する作業が手間のかかることばかりではないと思える。

 書いたことは現時点の私の考えであり、今後も適度に見直していきたいと思います。いやー、人の考えって氷山の一角なんだよな、ほんと。