根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】恋愛感情 is 何 の話

VERIVERYの'O'を聴きながら夜道を歩き、段々と鬱っぽくなっていくときの、泥沼に沈み込むような自棄と愉悦の感情はなかなか独特なもので、これだから私はこの曲のことが好きなんだよなあ、と思いながら、もうひとつ浮かんできたのは「寂しいのかもしれない」という感情で、前々から提起したかったことだし、提起しかけて辞めたことである「恋愛感情とは」ということについて、書いてみてもいいのだろうか。

 

という書き出しになりましたが、まあ考えてみてもいいかもしれないです。歩きながら考えてとりあえずの結論は「恋愛感情に限らず、私という人間はたぶん愛が足りてないし、愛を受け止められないのだ」ということでした。が、書きながら色々浮かんでくるかもしれないのでやっていきましょう。

 

さて、まずは恋愛感情というものについてです。昨今ありがたいことに「どうやら他者について恋愛感情を抱かない、あるいは性的欲求を抱かない人がいるらしいぞ」という認知が広がってきており「いや〜恋愛ってよくわからんのだよね」という考えは、昔よりは認められるようになったのかもしれない。

かもしれない、と言っているのは、「いや〜恋愛ってよくわからんのだよね」と思っていたとして、昔も今も「で?」という反応しか他人から得られなかった気がするから実感としてはあんまり変わらないのだよな、だからです。

さてここで言いたいのは「いや〜恋愛ってよくわからないのだよな」と私が今現在も思っているのは確からしいですが、それは私がアロマンティック(先に書いた他者に対して恋愛感情を抱かない人)を自認することとは別の話です。じゃあ私の考えは何なのかというと「んなこと、どうでもいい」です。ひとしきり考えてよくわからなかったので、あとは実践に任せるのみ、その時々で更新していきましょう、という方針になりました。もちろんこの問題をどう捉えるかは人それぞれであり、真剣に考える人、己の実存に関わる(つまりに生きることに密接に繋がっている)人もいて、それは尊重されます。この問題を矮小化したいわけではありません。ただ私の場合は、「自分は何者なのか」ということをどっぷり考え特定することに躍起になるより、他にやりたいこともやらなければならないこともあるということです。

なので、この文章を書く今この瞬間だけ私を仮に固定するならば「恋愛感情がわからない人間」とだけ、してみましょう。

 

恋愛感情がどうもよくわからないというのはどういうことでしょう。私の中で整理してみると

  1. 自分が他者に対して抱く感情のうち、恋愛感情と呼べるものがある(あった)かわからない

ということになります。常時この状態が発動しているわけではないですが、折に触れてこの思考に陥るのは結構疲れるというのが正直なところでしょう。直感的に「これは恋だ」と思えれば楽なのですが…。

パソコンやスマホアプリでいうと、時々予期せぬタイミングでアプリが勝手に立ち上がり、CPUの一部をひったくってバッテリーを消費させるみたいな感じですね。でもこれって、恋をしたことがある人でも陥る状態だと思っていますし、まあ、はっきりと数字でわかるものではないから仕方ないことだろうと思います。

私はよくわからないので、この辺り、具体的な事例を収集してとことん考えてみたいところではあります。でも悲しいことに、恋愛をする(した)ことがある人と侃侃諤諤と議論を交わしたことがありません。恋愛をする(した)ことがある人にとって大切なのは、今恋をしている人との関係性であり、これから恋をするかもしれない人といかに近づくか、出会うかになるからでしょうか。私が興味があるのは「そもそも恋愛感情とは何か」なのですが、その辺りニーズが違うのだろうなあと思います。

 

恋愛感情はよくわからないけど、これから恋をしたいかというとどうでしょう。正直よくわかりません。

恋愛に限らず、「この人だ」と全幅の信頼をおいて他者と関わることがよくわからないのかもしれません。他者を信用していないとも言えるし、いや、信用できないものだとも思います。信用できないというのは、十全に理解し切ることができないという当たり前のことなんですけど。

私の中で、人間関係というのは、内容の違いこそあれどれも均等であるべき、という風なのかもしれません。親友という言葉があるのはわかりますが、親友と親友じゃない友だちの違いはなんでしょう、私と誰かひとりそれがたくさん、の人間関係はどれも違うはずで、さらにそこに積極的に重みづけをする意味はあるのか。その重みとは何なのか、というのが私の考えていることのひとつかもしれません。であれば、恋愛関係という「特別」がいまいちぴんとこないのは、その通りかもしれません。たぶん私は、なるべく公平でありたいのでしょう、この辺はもう少し深掘りする必要があります。そして、この考え方自体はここまで整理されてなくても、小学校高学年くらいには感じていたことでした。

 

恋愛感情がよくわからない中で苦労したことはありますか?という問いには「ないんじゃないですかね」と答えておきます。幸いにも、身近な人たちから「あなた恋人はいないの?」ということを聞かれたことは一度もありません。また、他者から恋愛感情を抱かれることについては「ありがたいなあ」と思います。私がその人をどう思うかと、その人が私をどう思うかはまったく別のことだと思いますし。

 

難しいですね。なにより難しいのは、こういうことを誰かと考えることができないことです。なので、この文章を書くことで何か(何かとしか言いようがない)が開かれればいいなと思うし、これからも考えていきたいですね。

【雑記】時間のイメージとスマホゲーム

あんさんぶるスターズ!!Musicというスマホアプリゲームがある。ジャンルは音楽ゲームで、2022年から2023年にかけて結構叩いていて、それはそれはとても楽しかった日々なのだけど、iPadの冬眠と酷使(当社比)による動体視力低下の懸念から潔く引退した。でも辞めたいちばんの理由は、実はそこじゃなくて、あんスタ好きなんだけど、今も嫌いじゃないけど(そして嫌いになることもなさそうだけど)イベントのスケジュールにあると思うのだ。

話は変わるけども、私は決まった期間に区切られたスケジュール帳というものを使うことができない。

どういうこと?というと、例えば世の中にはたくさんのスケジュール帳があって、12月始まりとか1月始まりとか4月始まりとか10月始まりとか、開始月は様々だ。そして私は、開始月が決まっていて、かつ、終わりの月も決まっているのが、どうも我慢ならないらしい。じゃあどうしているかというと、無印良品のフリースケジュールノートを使っている。助かる。24ヶ月以上書き込むことができ、私のスケジュール帳は一年では終わらない。でも大概のスケジュール帳は一年と+αで終わる。そのことに私はいらいらする。

そのいらいらの根源は、年末年始が苦手ということとも関係するだろう。できることなら一年という単位で区切らないで欲しいのよな。生きるということは直線的に伸びていくものでもあるし、螺旋のようにぐるぐるするものでもある。大切なのは、生きるということの時間イメージを複数持ち続けるということ、異なるイメージを気ままに行き来することで、決まった期間のスケジュール帳というのは、螺旋的イメージを強固する効果があると思うのだ。

さて、ここまで書いて察しの良い方は気づくだろう。あんスタのイベントだ。

あんスタ内の時間というのは、イベントがあるときとないときを繰り返して進んでいく。イベントが始まるタイミングもおおよそ決まっていて、ああ、新しいイベント来たぞう、と胸高鳴る、飽きない工夫がされている。イベントの間隔が悪いわけではない。リズムが一定なのが私の中では駄目なのだ。

イベントは好きだ。音楽に合わせてタップするのが好きだ。でも、同じリズムでイベントがやってきて過ぎ去っていくことには耐えられない。一年の始まりが訪れ、終わりがやってくる以上に周期は短く、私の中の、時間に対するイメージはイベントがやってくる度に固定化されていく。きつい。

じゃあイベントをやらなければいい、意識の外に置けばいい。それもそうだろう。でも、私はやるからにはきちんとやるタイプなのだ。イベントのないあんスタは、ソフトクリームの乗っていないシロノワールと一緒だ。あのパン生地を溶けたソフトクリームに絡ませて食べるのが美味しいというのに。なので、シロノワールを食べること自体を、つまり、あんスタを遊ばなくなったということでした。

 

この話は、私がもう少し混乱せずに、折り合いをつけ、考え込まなければ、何ら不都合が生じない話である。そしてあんスタが悪いわけでもない。その証拠に、私は自身のスマホから、あんスタだけでなくあらゆるスマホアプリを撤去してしまった。イベントが無いものもあるものも、すべて。

 

あんスタのどのユニットも好きだけど、中でもお気に入りのSwitchのイベントが始まった。新曲は魔法をかけるSwitchらしいファンタジーな曲調で(特に序盤の逆先夏目の声は、吟遊詩人的な物語に人々を誘い込む歌声で最高だなと思った)私はそれを遊ぶことはできないけれど、良いものであるということに変わりはないのだ。あんスタに、スマホゲームに幸あれと思う。

【文房具】5本の万年筆をくるくるさせる

 MDノートジャーナル(ミドリ)というノートを手に入れてから、マジで毎日日記(内容はその日の出来事を書かないことも多いので「日記めいたもの」と呼んでいるけども)を書いています。もう少しで半年です。

 その「日記めいたもの」と併せて書かせないのが万年筆で、このノートを書く用に、5本の万年筆を日替わりで使っています。元々そうしたかったわけではなく、逆に5本の万年筆を使うために「日記めいたもの」を書いていると言っても過言ではないです。

 

LAMY safari skeleton

 私の万年筆デビューはたぶんコクヨのカクノで、次がラミー。2016,17年あたりか。元々MかFの青のラミーを使ってて、少し太い書き味だなと思ったのでこいつを購入。スケルトンなのでインクが見えるというのが好きポイント。このペンと併せてブルーブラックのインク瓶を使っていて、これがいつまで経っても無くならなくて「こいつサイコーな奴らだな」と思いながら日々使っています。好き。使い終わったら一回洗浄して、今度は暖色系のインクを使いたいところ。また4年ぐらいは同じ色と付き合わないといけないか。

 他の万年筆は結構むらっけがあるものもいて、インクの出が悪かったり質感が一定でないときがあるのだけど、safariについては常時一定出力で、安定感があるところも好きです。お値段5000円くらい。当時はもうちょい安かった気がするな。

 

プラチナ万年筆 プレジー

 次はプラチナ万年筆のプレジール。値段は1650円。細字。2017年ぐらいには買っていたけど、万年筆の打席に立ったのは遅め。それまでは引き出しの奥にしまっていた。

 文字は結構細いので「可憐」という印象を抱く。中字でもいいかもしれない。結構むらっけのある子、その1。ページを指で押さえていると、皮脂で書けなくなるような気がしていて、最近は書くとき注意しています。とはいえ、値段的に文句なしの万年筆で、万年筆スターターとして購入してもいいと思う一本。

 

プラチナ万年筆 センチュリー#3776

 インターネットで安い手帳を買ったらキャンペーンに当たって無料でついてきたやつ。お値段2万2千円。やばい。ボディがシュノンソーホワイトで気に入らないけど、文句を言うことはできないし言うつもりもない。加えて手帳メーカーのロゴが印刷されていて、もう3年くらい使っているので剥がれおちつつある。私の勝利も近い。

 価格帯を裏切らない、めちゃ良き万年筆です。これ買っとけって思っちゃう、万年筆らしい万年筆です。こいつのターンが回ってきたとき、日記を書く気持ちが一段ぐんと高まるパワーを持っています。インクの出量がちょうどよい塩梅で、綴られた文字がなんかかっこいい!って思っちゃうのですよね。このペンを壊さない、放置の末のインク詰まりを起こさせない、という固い決意から、この日記運用が始まったといっても過言ではありません。一定期間使わないと万年筆って書けなくなってしまうので…(洗浄すれば大丈夫とはいえ)。

 

セーラー プロフィット ライト 万年筆 ゴールドトリム

 2022年初春に自分で買ったお高め万年筆。1万5千円ぐらい。私の好きなVIXXのペンライトの色と一緒の、夜空に似た深い藍色とラメがめっちゃアゲです。このペンずっと機嫌が悪くて書き味最悪だーと思っていたけれど、最近やっと落ち着いてきた気がする。正規のインクを使っているのでインク詰まりとかは無いと思うけどなあ。このペンにはブルーブラックより明るい青のインクを詰めているので、このペンで書くページは明るい雰囲気になります。良き。

 

kaweko クラシックスポーツ万年筆

 新参者。2023年冬、自分の冬のご褒美で購入。値段は4千円ぐらい。

 このペンの特徴は小ささ。蓋をくるくると外してペンの尻につけることで完成。蓋をすれば私の手のひらの四分の三ぐらいのサイズに収まって、ジーンズのポケットにも余裕で入る。まあ、万年筆にコンパクトさを求めるかというと私はそうでもないけど…。むしろ安定や重厚さが欲しい。コンパクトだから何か劣るということもなく、書き味は柔らかめ。順調に仕事をしてくれる新参者という印象。

 

 

 経過時間を無視して金額だけ考えるならば「結構万年筆に使っているなあ」という感じだけど、買ってから壊れたことがないしずっと使い続けているので、「むしろ無料!?」みたいな感覚に陥っている。多分悪い考えだけどそれ。今はこの5本を、日替わりで日記を書く用に使っています。あと2本くらいはパーティーに追加できると思っている(悪い企み)。でも、7本にすると曜日固定になっちゃってそれは嫌だなあ、だからあと1本かしら(再びの悪い企み)。

 

 「万年筆の何がいいんですか」と言われたとき、答えることは難しい。じゃあ「シャーペンで日記書けますか?」と聞かれたら「I don't want」と答えられる。それとこれとは違うのだ。ここから万年筆の良さを考えるなら「しっかりと思考を綴ることができる確かさを持ちながら、疲れにくい」というのを挙げることができるのでしょう。万年筆で計算問題は解けないしなあ。これは個人の感覚で、勉強についてはもっと気軽にうだうだするためにシャーペンじゃないと無理だ。

 日記めいたもの以外で定期的に書く事柄で万年筆にぴったりの案件があれば、もうちょっと万年筆の領土を拡大したいところですが(それは万年筆が好きなので)逆に、日記用と他の用途で差別化をすることに自分が納得できるかはわからないです。

 ちょっと何を言っているかわからない話をしていると思うのですけど、「日記めいたものを書く為の」という共通した用途(場所)があるからこそ、価格帯がばらばらな個性豊かな万年筆たちをそれぞれ愛せているような気がしてですね…。だから日記を書くことと同じように、新しい使い道を好きになれたらその問題は解消できそうです。でも、日記を書くことと同じくらい好きになれる使い道って見つけられるかなあ、ああ、あるかも(想像一時停止)。

 

 ということで、万年筆について考える文章となりました。書いていて楽しかったな。

ダイヤモンドアート

年末からダイヤモンドアートを始めました。

きっかけはYouTubeのショート動画、というありふれたもの(?)で、ああ、アルゴリズムに導かれし人間たち、ハマるかハマらないかでいったら、ハマったけども、多分10年前の私ならあまり魅力に感じなかっただろうと思います。人間、変わるものです。

 

ダイヤモンドアートの魅力。

  1. 隙間時間に少しずつできる
  2. 小さな石をシートにつけるとき、真剣になるので気分転換になる
  3. ある程度進んだところでシートを引いてみてみると、絵ができつつあって達成感が得られる

私の中ではかなり好ましい楽しさに分類されます。手を動かすことができる、単純、結果的に何かができる、綺麗、こういった要素が楽しさを支えています。手を動かしてダイヤモンドアートを進めながら、動画を観ながら、脳の5%くらいの領域で考え事をするのが心地良いので、長く続けられるよう、あえて時間を短くしてこつこつぺたぺたと石を貼り付ける日々。

進捗率は65%ぐらい、大体一ヶ月くらいで完成しそうで、早くも次の絵柄をインターネットで探しています。この楽しみ、いつか飽きるでしょうか。今から飽きるときのことを考えるなんて後ろ向きなことと思いますが、いつかは飽きるだろうな、これ…。

何はともあれ、今は楽しみの只中ですから、満喫したいと思います。

【ポケモン】休むと言えるあなたはすごい/時々休むネモについて

ポケットモンスター スカーレット&バイオレットに登場する、主人公のお友達、ネモちゃんが度々休憩を入れているのは、登校するまでの道中で気づかざるを得なかった。ここで考えたいのは、ネモの個性と「ちょっと休憩が多め」という性質のバランス感だ。

ネモはポケモン対戦が大好きなようで、ポケモンと出会ったばかりの主人公に連戦を持ち込むし、テーブルシティの入り口前でも戦いを挑まれるし、主人公にチャンピオンを目指せと示すし、とにかくバトルが好きだ。どうして彼女がバトルをそこまで好きなのかはまだよくわからない。

一方で、ネモは度々休憩する。灯台で休憩し、テーブルシティ手前でも休憩する(確か)。彼女の休憩のおかげで、灯台からパルデアの豊かな自然を一望できたし、ネモと一緒ではなく、先に主人公だけで探索するという「自分だけの」旅がある。ネモに導かれてだと完全に自由な散策はできないので、もしかしたらゲーム上の都合かもなあと思う。誰かに付きっきりでいられると窮屈に思うのは私もよく感じることだから。せっかくのオープンフィールドだもの、細かいところで主人公を一人で動かす工夫がされてるのかもしれない。

ということで、ネモの休憩はゲームの都合によるものかもしれないが、それは置いておいて、休憩を度々するネモと、彼女の個性というのは不思議なバランスの上に成り立っていて、私はそれが好きだ。

度々休憩する=疲れやすい、と言い換えると、疲れやすさは大概デメリットのように感じられる。

同じことをして私は疲れてクタクタなのに、他の子は元気が有り余っていて私の先に行く。その背中を眺めるのは少なくとも嬉しいことではない。あの子のように自分ももっと体力があったらなあ…という気持ちは、自分は駄目な人間なんだと、時に自己否定に繋がる。

が、ネモの振る舞いにはそれがない。ネモは堂々している。チャンピオンクラスという、ポケモンバトルのプロ級の実力の持ち主で、生徒会長でもある。疲れやすい?性質は、彼女にとってただの事実であり、そこにプラスマイナスの感情は無いように見える。

あと、これは率直にすごいことだと思うのだけど、あの年頃でちゃんと自分の体力リソースを把握し休憩を入れられるのってすごくないですか。びっくり。自分の持っているものを正確に把握することなんて大人でも難しく、「ちょっと休むねー」と言えるネモはすごいと思う。さっぱりとした性格も関係しているのだろうか。

ゲームというのはなんでもできてしまうからこそ、その「なんでもできる」に対してどういう制限をかけていくのか、というのは興味深いと思う。制限はゲームを作る側がかけていくもの、というのも面白い。制限のデザイン。

ポケモンSVは一度クリアしていて、もう一度最初からやり直しているところである。記憶を辿っても、そしてもう一度遊び直してもキャラクターたちがいきいきとしているように思うのは、足りているところと足りないところが描かれているからではないか。

ネモの時々休むところは彼女の足りないところかもしれないが、劣っていることではないし、休めるというのは素敵なことなのでむしろすごいことだよね、と考えられる深みがあるのが、ポケモン、楽しい。

【音楽】散歩プレイリスト Winter 2023

 今日も今日とて散歩をしました。

 2023年、どういう年だったか。2023年1月というのは遥か前の出来事でもはや総括することなどできないですが、意識的に日記(紙)を書き、意識的に散歩をした年だった気がします。いや、2022年からそうだったかもしれないけれど…。

 冬の陽の光というのは温かくて気持ちがいいもので、今日も歩きながらポカポカといい気分でしたので、もしこれからも歩き続けられるのであれば、2023年の冬の散歩プレイリストを残しておくのもいいかもしれないと思い、こうして筆をとった次第です。

 

散歩プレイリスト Winter 2023

  1. ヒプノシスマイク ‐D.R.B‐ (夢野幻太郎)「蕚」
  2. 向井太一「声が聞こえる」
  3. [Alexandros]「ハナウタ (feat. 最果タヒ)」
  4. 星野源「夢の外へ」
  5. SEVENTEEN「Still Lonely」
  6. SEVENTEEN「_WORLD」
  7. YUKI「Baby, it's you」
  8. PENTAGON「1+1」
  9. Girl's Day「Hello Bubble」
  10. 仲野順也「元気!」(デュープリズム サウンドトラックより)
  11. NiL「Blowing」
  12. 春野「Like A Seraph」
  13. ひかりとだいち love SOIL&“PIMP”SESSIONS「eden」
  14. Galileo Galilei「ピーターへ愛を込めて」
  15. 宇多田ヒカル「Somewhere Near Marseilles ―マルセイユ辺りー」
  16. XG「NEW DANCE」
  17. Schroeder-Headz「Blue Bird」
  18. VALORANT & ericdoa「>one (greater than one)」
  19. 水曜日のカンパネラ聖徳太子」※2023年12月30日追加

 このプレイリストに入る曲は、例に漏れず私の好きな曲ですが、私の好きな曲がすべて散歩プレイリストに入るわけではありません。このプレイリストに加わる為には、程よい楽しさと心地よさが必要です。それ以上の過剰な感情は不要です。あと数か月経って、このプレイリストから消えてしまうこともあるかもしれませんが、それは悲しむことではなく、チューニングの結果でしかありません。しっくりこないな、と首を傾げたときが調整のタイミングです。

 この中でも特に声を大にして言いたいのは、XGのNEW DANCEは朝の散歩の最初に流すとマジでアゲ↑↑↑なので、試してほしいです!

【雑記】SPECと糖分補給

しょうもない話ですけど。

私は昔々、SPECというドラマにはまってたことがありまして、主人公の当麻の言動に影響を受けたことが一つや二つはあります。

当麻という人間は、確か京都大学卒業の天才で彼女の奇怪な振る舞いを挙げてみますと、

  • 赤いキャリーバッグを持ち歩いている
  • 餃子をこよなく愛している
  • 口と歯を使って2リットルの水のペットボトルを開ける(当麻は布で吊っている為左手を使えません)
  • 事件を整理するときに半紙も筆と墨と硯を用意する
  • 大容量のシロップ(はちみつ?)をそのまま飲む

などなど。

中でも私が当麻から影響を受けたのは、彼女の大喰らい性でした。あ、よく食べるのはSPEC以前の話で、SPECから影響を受けたのは、とにかく好きなものを食べること、でした。

当麻はめちゃめちゃ頭の良い人らしく、脳みそが常にフル回転しているからか、よく食べる食べる。バディの瀬文に、シロップのがぶ飲みのときかな違うかも、何やってんじゃてめーは、とつっこまれたときには、脳をたくさん使ってるから糖分補給じゃ、みたいなことを答えていた気がする。気のせいかもしれん。

以来、シロップをがぶ飲みしたり、わらび餅や牛丼や銀だこを食べている当麻の絵と、「脳を酷使した時の糖分補給」がしっかりと頭の中で結びつき、「いやー、今日は頭脳労働めっちゃしたなあ!」と思ったときは、嬉々として間食するようになりました。基本的には間食をしない人間なのですけどね。

ということで、今日も今日とて、チョコチャンクスコーンを手に入れてきましたわくわく、というだけの話です。