根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】最近考えてたこと/政治について

 ふと、私は「華胥」(『華胥の幽夢』より)に登場する慎思(「しんし」と読みます)の言葉について考えていたのでした。以下引用です。

「なのでしょうね。私は取りあえず、違うと思う、とは伝えました。これが正しいと示すことはできないけれども、あなたのしていることに賛同はできない、と。それを聞いてもなお、自身の道に確信が持てるのであれば、砥尚の思うようにやってみればいいでしょう」(「華胥」 p.286)

  これは慎思が砥尚と喋っているシーンです。砥尚というのは慎思にとって息子同然の存在なのですが、考え方に関して二人には相違があるのでした。簡単に言うと、国を荒廃の一途に陥らせている現国王に対して抗おうとする急進派の砥尚と、穏健派の慎思という構図。慎思は砥尚の急進的なやり方に対して賛同できない意を表明した上で、砥尚のやり方を尊重はするということを言っています。。

 私は、「賛同はできないけれど、尊重する」という慎思のこのスタンスに、少し甘さを感じつつも、惹かれていることを否めません。というよりも、私はもう10年近く前(おそらく)にこの本と出会ったときに思いっきり影響を受けてしまったのです。価値観形成に十二国記からだいぶ影響を受けてます。

 

 先の都議選の開票速報を追っていて、ふと、「選挙って面白いなあ」と思ったのでした。そして、私がなりたい人物像って何だろうなあということも考えていたのでした。つまり、どのような人間に魅かれるのか、私はどのような人間になりたいのか、ということです。

 

 さて、正直に言うと、私の中には政治に対する漠然とした恐怖があります。恐ろしい闇があります。政治って面白いと思うけれど、一方で見るに耐えられないことが起こっている。ずっとそう思ってました。そして見えない恐怖について知ったところで私には何もできない、何も変えられないという気持ちがあります。

 そうした諦念が積り積もって今の日本のこのような状況があると思いますが、実のところ、日本のこの状況に対する強い憤りが自分の中にはない、ということに絶望しています。私は怒れないのか、と。この期に及んで、私は怒らないのか、と。

 ということで、少しやり方を変えることにしました。怒りが起こるのを待っていても私という人間はどうやら行動しないらしい。であれば、違うやり方で、私のスタイルで、私なりに政治と関わる必要があるのです。

 少しずつ気になったニュースを掘り下げることから始めようと思います。試しにラジオを聞いたり新聞を読んだり、いつもは読まないジャンルの本を読んだりしています。サボるときも当然ありますが、少しずつ習慣になればいいなと思って、やっています。

 私は人間の愚かさを見つめることがしんどいのですか。どうなんですかね。見なければ存在しないのと同じですからね。でも私にとっては存在しなくてもそれは幻ですからね。そして悲しいニュースを見ると、疲れているときなんかは本当に心が弱ります。泥に足元すくわれてそのまま抜け出せないような。でも、私より大変に苦しい思いをしている人はたくさんいて、自分が苦しむなんてお門違いなんだ、そういう息苦しさもあって、難しいなと感じます。私がオロオロしたままでは誰も救えないし、無知であることで誰かを傷つけることがあるならば、私は学び続けなければならないと思います。そう、結局何もしなければ何も変わらないんです。であれば、たとえ何かを変えられなくても行動したい。

 

 「華胥」の中でこんな言葉が登場します。

 「責難は成事にあらず」

 文字通り「人を責め、非難することは、何かを成すことではない」という意味です。その通りだと思いますが、この言葉で以て、人を責め、非難する人々の口を閉ざそうとするのは違う気がします。人を非難することも必要なことです、間違いなく。人を非難しないことは、己の怠惰によるものなのか、非難しなくていい立場に置かれているからか、一考する余地はありますよね。

 結局どのように振舞うかは個人の在り方の問題です(ああ、すごく十二国記的な考えだ)。だからそれぞれが生きたいように生きればいいと思っていて、ただ世の中を変えたいと思っている人の足を引っ張るのは違うので、応援したいなあと思います。

 私はTwitterをやっているけれど、どうもジャンル別にアカウントを分けるのが苦手で、好きな音楽のこともアイドルのことも、生活のことも、本のことも、切り分けられないものだから、逆にもっと混沌を極めたTwitterワールドにしたいなあ…。

 

 と、突然こんなことを考えたのは、先にも書いた通り都議選の開票速報が面白かったからです。選挙結果1つをとっても、見る人によって見方が異なりそれはつまり世界が異なるというわけで、明晰に各人分析をしていく様は、陳腐な言い方ですけれど、「すごいな…かっこいいな」と思いました。ただ、「誰も知らないことを私は知っている」という魔法に簡単に?かかれるのが世に蔓延る陰謀論だと思っていて、「誰も知らないことを知っている」という知識の所有は少し危険。知は所有するものじゃなくて、創造する?発見する?広げるものなのだろうと思います。うむ。

 

 最近考えていることでした。常に変わっていけたらいいよね。