根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【映画】『パラサイト 半地下の家族』感想

 私はネタバレってのが好きで、自分から率先して踏むようなところがあるのですが、それはつまり「何も知らない状態で映画を観たときに味わう何もかも」を得る権利というか、そういうものを自分から放棄していると思っていて、それでも踏むときがあります。

 だけど私以外の人が持つそれらの権利を私が奪うわけにはいかないので、以降の記事は基本的には『パラサイト』を観た人だけが読んでください。

 

 え~でも、今後も観るつもりないし…。

 

 と思っている先に進もうとしているそこのあなた、でも気が変わって観ることもあるかもしれない。誰かと一緒に図らずも観に行くことだってあるかも。だから読まないでね。この映画は特に《ネタバレ厳禁》みたいな風に言われているのかもしれないけど、この映画だけじゃなくてあらゆる作品はこれらの考えが当てはまると思う。「何も知らない状態」って貴重なのだからもっと大切にした方がいい。と、思う2020。よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話は変わるけれど、私はいわゆる「逃亡者もの」の話が昔からあまり好きではなかった。話の流れとしては「やってもいないことで濡れ衣を着せられる→正義をふりかざした権力に追われる→捕まっても誰も信じてくれないから逃げる→逃げても仕方ないので逃げながら真相を究明していく」みたいなやつだ。多分私は、基本的に人が誤解されるってのがあんまり好きではないっぽい。

 ただ、人間ってのは誤解だらけの生き物だ。人の解釈に絶対的な正解なんてない。正しく相手を理解することなんて到底不可能。誤解なんていつだって生じている。なのだけど…。「誤解を利用した作品」って人間の勘違いを上手く活用してそこに生じるちょっとしたユーモアやシリアスを美味しく食べよう、みたいなところがあって、それは肯定ではないと思うのだけれど、ちょっといただきますよ、みたいなふてぶてしさを感じる。ふてぶてしさ?こういう表現を使ってしまうことからわかるように、私は「誤解を利用した作品」がいまいち楽しめない。それらの作品は「誤解が解けたときどうするか」という終着点を意識せざるをえない。その終着点でいよいよ何かが爆発する。ここまで積まれてきた嘘が崩れ落ちる。その瞬間のことを考えたら、いてもたってもいられない。気が気でない。だから楽しめない。人間が人間を誤解したままで生じる何もかもに、私はユーモアよりは心配や不安や悔しさを感じてしまう。(逃亡者ものは基本的に「悔しい」だと思う。「あんたらもっと自分のこと他人のこと疑いなさいよ!!!」ってテレビの前でキレてる。疲れるから見ない。)

 

 ということで、私は『パラサイト』という映画が一体どういう映画なのか、よくわからないまま観に行った。なんか行く人行く人「すごいすごいすごい」と言っていたから。

 私は『パラサイト』という物語が基本的にどう流れていくのかすらよくわかっていなかった。だから開始20分くらいでこの映画がいとも容易く軽やかに、私の地雷を踏んでいったことに気づいたとき、帰ろうかと思った。このまま私はこの映画を観ることができる自信がない。20分の時点でしんどい。無理。でも結局は2時間強、観ることになってしまった。

 

 観ることができた理由は色々あって、それがそのまま『パラサイト』という映画の私の好きなところでもあると思うのでそれを書いていきたい。

 

 まずは途中で焦点が変わったこと。キム一家の嘘は一体どうなるのだろう。バレるの?バレないの?というハラハラドキドキ(ああ、本当に嫌い!)が、雨の夜の宴を切り裂いた「ピンポーン」というチャイムの音で一気に吹っ飛んだ。モニターに映っていたあの家政婦の顔!!!超ド級のホラーだった。「あ、やっべ…」キム一家も思ったと思うけれど、私もそう思った(「この映画、なんだかヤバいぞ…???」)。あれは狂気だった。最初家政婦の人が腹いせに殺しにきたのかと思った。そういう狂気があった。すごかった。もう家政婦さんはあの時点で壊れていた気がした。今思えば。ということでキム一家の嘘の行方以上に、本当の地下に住んでいた夫婦をどうしてくれるんだ!!!に関心が移り、もう結末が全く読めなくなってしまってあとは物語が動くのに身を任せるしかありませんでした。ストーリーがまったく読めない。映画が《ネタバレ厳禁》と言われている所以。

 

 あとは最初からそうだけれど、絵が綺麗だった。日の当たり方、街や建物の撮り方、カメラの動き。キム一家の長男で最初にパク一家に潜り込むギウが坂を上りその重たい扉を潜り抜けるところで「うわぁ…なんかすごい」と思った。キム一家が住む街や家、パク家なんかはセットらしいと知りまたもや「うわぁ…」となる。確かに、あの大雨のシーン。半地下の家が水浸しになり妹のギジョンが水が逆流するトイレの蓋の上に座って煙草を美味しそうに吸っていたところ。なんか、面白いのだけど、K-POPのミュージックビデオぽかった。水が噴き出す感じとか。

 一番好きなシーンは、またもや大雨のシーン。パク家から父息子娘一緒に撤退するシーン。坂道を下り、トンネルを走り、長い長い階段を下りていくあの一連のシーンがすごく良かった。

 

 パク家が善人であったこともポイントだった。彼ら彼女らは度が過ぎた善人でもなかったし、悪人でもなく、適度に善人であり悪人であった。圧倒的な才覚があったわけでもなく(そういう描写はなかったと思う)お金持ちの普通の人たちだった。このバランスを維持するのは多分考えている以上に難しくて、ぎりぎりを狙っているのだろうという気がしている。物語になると大抵はどちらかに傾くのだけれど(性格が最悪、とか、過剰の人が良すぎて歪んで見えるとか)この映画は自然に撮った。すごい。で、普通の人たちだからこそ最後の最後は結構しんどかった。スプラッタな絵は別に大丈夫だと思っていたはずなのだけれど、芝生の上の惨劇は手のひらを目に当てててちらちら見る。直視できなかった。あの人たちは意識を失う瞬間まで、何故自分たちがこんなことになっているのか理解できないのだろうなとつらかった。あのようになって当然、とは思えないし、到底笑うことができない。

 

 匂いもポイントだった。「干した切り干し大根の匂い」ってのがあの映画を観る韓国の一般市民の中でどれくらいの共通理解なのか興味がある。他にも私が日本で生きる人間だからこそ感じられないことがあると思っていて、それはちょっと歯がゆかった。一応前準備としてネタバレではないけれど知っておくと面白いよ!みたいな情報は読んで観に行ったけれど、インスタント麺とかよくわからんしな…。日本人にとってのチキンラーメンを外国の人に伝えようと思うとなかなか難しい。私にとっては「美味しいけれど味が濃いからたまに食べたくなる実は滅多に安くならないインスタント麺」。

 そう、一番印象的だったのは、服かもしれない。半地下で生活しているときの味気のないだぼっとした衣服から、一応こざっぱりとしたジャケットや髪型にすればIT企業社長の家にいても外見上は馴染めてしまうんだぜ!!!なところ。最後の最後にギウが教え子である社長令嬢に「自分はここに馴染めているか」と聞いていて、女の子が彼に惚れているという設定抜きにしても多分他の人から見たら馴染めてはいるのだ。でも体に染みついた匂いだけは駄目。終盤に近づけば近づくほど匂いがキム一家を下へ下へ呼び戻していた。その力も強くなっていた。でも私は割と「へー」と肯定的に捉えていて、そう、外見を整えてしまえば私たちは街に溶け込んだ風に見せることができるのだ。外見大事!!!という結論は、私の勝手な解釈だなとは思ってます。染みついた匂いはどうしてくれるのかね?ってのが問題なのですが。あとは言動もおいそれとは変えることができないってのもポイント。

 

 考えられることがありすぎる。楽しいけれど疲れた。

 自分たちのことを書くのは実は難しい。自分以外のことを書くのはそこまで難しくはない。自分たちのことを書くのが難しいのはそれが「見えない当たり前」だからで、当たり前が存在することを自覚し、それがどういうものであるのか的確に捉え、描写しなければならない。『パラサイト』という映画がどれだけリアリティを持っているのか、私にはわからない。けれど現実に迫ろうとしていてそれがある程度は達成できているものなのではないか、というのが私の直感。だとすれば私が日々楽しんでいるK-POPなんかもこの映画と地続きで存在しているもので、ともなるとますます考えることが増えるね。

 

 映画観終わった後は結構しんどかったけれど、それぐらい衝撃的な映画でした。生きるって疲れる。音楽聴くのもインターネットするのも書くのも食べるのも、疲れる。短期間的なその場しのぎの計画ではなく、夢ができたギウの人生はそれから先どうなるのだろうか。ちょっと、気になる。