「そうだ 京都、行こう。」のCMが好きです。
でも、好きって言うのはちょっと悔しい、だって狙っているもん、という気持ちもある。絶対狙っているもん。何なら、このCMを取り上げて解説している人といるでしょう?(あえて調べないけれども)そう思うぐらい、よくできていると思う。
初代長塚京三さん、二代目柄本佑さん。調べているうちに、こんな対談も見つけてしまった。深くは読まないでおく。まだ。
「そうだ 京都、行こう。」キャンペーン30周年記念特別対談 【長塚京三×柄本 佑】|ほんのひととき
このCMの特徴は、
- 美しい京都(四季と歴史的建造物、景観、人があまり出てこない)
- 定番のあのメロディ
- ナレーション
で、テンプレート化されているところで、ああ、いつものこのCMね、今回は何かしら? と、観るときのポイントが理解しやすく、そのポイントこそがこのCMで伝えたい京都の魅力というところ。活けられた切り花を思い出させる。型があり、余白があり、だから想像が生まれる。
そして、想像を延ばす装置としてナレーションがあるのではないかと思ってしまう。
このナレーションが好きだ。長塚さんの、特に近年の落ち着いてゆったりとした声音と京都という場所の連関が冴えに冴えていると思っているし、一方で柄本さんの、どこか掴めない屈託のなさといいますか、その明るいミステリアスな部分が、京都というまちの奥深さと共鳴している感じがある(私は同じく京都を舞台にした『有頂天家族』を思い出してしまう)。
映像、音楽、声。この3つの要素が絡み合って生み出される作品だなあ....と思うわけですが、同じのを古畑任三郎のオープニングでも感じます。あれは映像の迫力こそ無いが(映っているのは古畑さん一人だけ)音楽とテキストで見るものを丸め込んでしまう力を持っていて、なんかこう、直接的に表現できないユーモアがあって、そういうのを共有しあえるのって、多分年々弱まっているのだろうとも思っています。
これは自分の戯言なのでおまけもおまけですが、言葉で他人を欺こうとしたり、言葉を蔑ろにしたり、軽んじたり、具体的な表現なのかわからないけれど、言葉を使った揚げ足取りとかを日常の場で多用していると、人は言葉に対して慎重に、かつ、意固地になると思っていて。そういう言葉の弾力性(つまり、余地とかニュアンスとかいう曖昧な雰囲気みたいなもの?)が失われていくと、全然面白くなくて。個人的には、公園でボールを使って派手にやらかして、球技ができなくなって遊びの幅が減るみたいな、そういうのを言葉に対しても感じており、このCMは今でも珍しく、雰囲気のCMなんだよなあ.....というのを、感じました。いつもCMを見て「京都行きたいなあ」と思うのですが、数十秒後には忘れている。それもまたCMらしいと言えばCMらしい。