ドラマ「アンメット ある脳外科医の日記」を観終わりました。完走。情緒が大変なことになっている。このドラマ、いくつも語れることがあるので雑になるかもしれないけど書いていきたいです。
層の厚い俳優陣の名演技
最近またドラマというものを観始めているのだけれど、そのモチベーションはどこにあるのかというと「人間というものを、演じられた人間を観ることで考えてみたい」である。同じように気が向けば「演劇」というものも追っていきたいのだが、そこまで手が回っていない状況です。
このドラマは、登場人物が同じ世界で生きているなあ、、、という印象を受けました。なんというか、物語世界への没入感がすごくあって、その要因は様々だけれども、演じる際の質感みたいなものが揃っていた、というのもある。浮ついた人がいない。それはその回単独のキャストでも同様だったと思います。
どのキャストさんにも同じぐらいの熱量で語れる自信はあるが、特に印象に残ったのを挙げてみたいです。まず、吉瀬さん演じる看護師長の津幡さん。吉瀬さんの声の印象から、大人の女の人の柔らかさや綺麗さ、秘めた強さみたいな印象を持っていたのだけれど、津幡さんの場合は誇り高き看護師長、という感じで、いい意味で裏切られ、また後半になるにつれチャーミングさが味わい深く、「いいキャスティングだ…」と、何様って感じだが勝手にしみじみしていた。ショートボブのふわっとしたスタイリングとは一転、髪を後ろにきちっとひっつめることで、怜悧な印象を出したの良すぎます。
あと、岡山さん演じる綾野先生が考え事しているときに首元を触っていたり、若葉さん演じる三瓶先生が猫背気味なところだったり、千葉さん演じる星前先生の大らかさが感じられる佇まい、杉咲さん演じる川内先生が豪快に食べたり、そういう、言葉以外の身体表現をきっちり撮るドラマだなと思いました。しかも、それを「撮っているんだぜ」という押しつけがましさではなく、「映ってしまいました」みたいなところがすごい。
私の好きなアニメ作品に「リズを青い鳥」というものがあります。この作品はパンフレット(当時劇場で買った)を拝見するに、主人公である少女たちの一瞬一瞬を、息を潜めて記録する、そういう繊細な空気感を掬い取る、映画だと思っています。「アンメット」はカメラと被写体の近さや、何を撮るか、といった撮り方に「リズと青い鳥」に似たようなものを感じました。アニメ以上に「こんな観ていいのか…」と思ってしまった。特にそれを感じたのは、人物たちの感情がどうにもならず零れてしまう一瞬で、色々考えさせられました。なんというか、ドラマってのは視聴者は「傍観者」であり「目撃者」であり、ある意味で神的な視点を持つ立場で、通常ならあり得ない角度であり得ない近さで、演技する人間の表情や所作に迫ることができる。そういう当たり前と言えば当たり前のことを、改めて考える作品だったなと思います。
あと、古のニチアサ勢としては、ニンニンジャーの霞姉(山谷さん)がキャストとして活躍されているの嬉しかった…。
日記と情報とその日限り
日記愛好家(!)としては、川内ミヤビが生きる上で欠かせない日記も触れなくてはならないものでしょう。日記というのは一般的には、ノートで紐綴じであることが多いと思うのですが、A4で、バインダーで、ルーズリーフで、というのは思わず膝を打つチョイス。朝の限られた時間で必要な情報を頭に入れなければならない川内先生の日記は、ページの並び替えや取捨選択ができないノートではありえない。A4というのも、持ち運びには少し難点があるけども、それだけたっぷり情報が書き込めるサイズという点で頷ける。
一日しか記憶を保てない川内先生は、過去のある程度までの記憶と、2年前から現在に至るまでの記憶は日記で引き継いだ情報とで判断をしなければならず、昨日までの記憶を引き継ぐことができる健常者とは少し違う判断の在り方かと思います。川内先生が何を根拠にその時々の判断をしているのか、このドラマでは「○○で△△で◇◇だから」みたいに、日常会話では不自然と思われるような説明はしません。視聴者側で想像しながら観る必要があるかと思います。
私はこれらのことから、人が何かを判断するときの情報って、実はそんなに多くないのかもな、ということを考えました。この話は、家の事情や婚約者との関係、自分たちに関係するものありとあらゆるものに縛られ、判断ができなくなっている綾野先生との対比で作中触れられていたかと思います。
日記は川内先生のものなので、実際何が書かれているのかは、作中、断片的にしか登場しない。語られないけれど、明日に何を残し何を残さないのか、その取捨選択ってのはすごくすごく重要なことなのではないか。そんなことを考えていました。
私自身、比較的毎日、日記めいたものを書いていますが、そこに何を書いて何を書かないのかは無意識的な選別のように感じます。その「無意識」こそ、その人がその人たり得る何かではないか、とか云々。
愛されている
これは、ちょっとしたツッコミになります。川内先生というのは、愛されるにふさわしい人であることが、作中ずっとずっと描かれてきたと思う一方、逆に言えば、川内先生だからこそ、三瓶先生も綾野先生も星前先生も大迫教授も津幡師長も病院長も森ちゃんも、その他たくさんの人々が川内ミヤビという人間が幸せに生きられるよう最善の道を考えるわけで、その大きな愛に食傷気味になってしまったのは私がひねくれているからかもしれません。大きく強い愛を描くということは、そうではない存在(影)をもまた生み出し育むことになるのか。いいえ、違います、ってのは作中語られている気がするので、この辺はもう少し考える必要がありそうです。川内先生、みんな好きになっちまうよ。あんなほわほわ柔らかく、優しく、キュートで、焼肉丼を大きな口で食べる人、好きになるに決まっているだろうよ。あと、基本的に脳外科の患者さんも誰かに愛されている人ばかりで、いろんな愛があったな、と思いました。まあ、実際は色々な人がいるだろうね。
揺らぐ
カメラが被写体に近づく際に時折揺らぐところが、映るものの感情の揺れ、観る者の心のざわめきとシンクロし、なんともいえない感情をもたらす。
雑談
川内先生と三瓶先生は、作中、結構だらっと喋るシーンが多かったのだけれどそれがまた良かった。お二人とも演技が上手いのだろうなあと思う。雑談は脱力感が必要で、言葉を交わしていることが心地よいという雰囲気を醸成する力。背景。撮り方。
最近のドラマだと、伏線回収の爽快感、その効果を重視するあまり、雑談をだらっと観ることができない、むしろ「なんか隠してない???回収しようとしていない???」みたいな穿った目で観る作品もあるのだけれど、このドラマは「いやいや何も疚しいことしないですよ、そのままだらっと観てくださいな」みたいな演出が施されていたのかもしれないです。難しいよなその辺。不自然な撮り方をすると、絶対「伏線や!」ってわかるわけです。
たとえばネタバレになりそうだけども、第一話にて、赴任したばかりの三瓶先生が川内先生に出会うシーン。あのシーンの三瓶先生って、二人の関係を暗示するならば、そして物語上も、実はちょっとは動揺してもいいはずなんですけど、あんまりその素振りが無い。このことの意味とは、という感じなんだよなあ。
アイテム
アイテムからその人の人となりをすべて推し量ることができるなど傲慢ではあるが、私は大迫教授が植物を育てることに熱心であること、植物が回復していく様に喜びを見出せることに、やっぱり大迫教授の善性を感じてしまう。蛇や蛙の肉を意地汚い風に食べる西島会長の不気味さであったり、長袖の上着は首から顎先まで覆えてしまうくらいなやつを着ている三瓶先生であったり、ビールが好きな川内先生だったり、日本酒をしっとり飲む成増先生であったりと、アイテムが要石のようにじわじわと影響力を発揮していた、気がする。個人的にアイテムと人がしっくりときている作品が、私はとても好きです。
最後に満たされたのは
個人的に今いちばん「アンメット」で興味深いと思ったのが、作中「川内ミヤビの記憶がもたない」という事実に対する人々の受け止め方、でしょうか。川内ミヤビと一緒に生きている人々は、その点はもうとっくに乗り越えた地点から物語が進んでいく。三瓶先生もまた感情を表に出すことなく淡々と関わっていくのですが、次第にこぼれてくる感情の気配みたいなものに、うっと胸打たれる。毎日毎日、彼女と自分の記憶がリセットされるということは、結構しんどいことだと思うのですが、そして次第に記憶どころか命の危機にすら及んでいくのですが、最終話近くの三瓶先生の胸中やいかに。
アンメットは「満たされない」という意味だそうですが、あの物語に登場する誰もが、川内ミヤビという存在を愛していたし、彼女に救われたことがあると思うのに、第9話で救われた!と思ったら彼女の一言できっとまたどこかに落ちたような心地をした三瓶先生が、最後の最後で救われる(満たされる)という演出だったのかしら、と思いました。
終わりに
ドラマを観るときに「こんなの現実にはありえねーよ」という批評は、あまり意味がないと思っています。物語である以上、現実にはあり得ないことも存在します。ある地点に向けてご都合主義的に作られているかもしれません。それでもいいんです。きちんとその物語世界に通じる論理が積み重なって説得力があるのであれば、私は問題ないと考えます。違和感以上に、伝えたいことがあり強さを持っているならばOK。「アンメット」もそういうドラマだったと思います。人間って、やっぱり面白いなあ。