根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【お出かけ】「内藤礼 生まれておいで 生きておいで」を観に行く

 色々事情があって「この日は何かあったら身動きとれるようにしておきたい」と休みを取ったけれど、結局何もなかったので、東京・上野にある東京国立博物館で開催中の「内藤礼 生まれておいで 生きておいで」を観に行くことにした。

 私は昔から上野という町が好きなのだけど(祖父母の家が割と近くにあった&スポーツのジュエンで水泳用具を買っていた)東京国立博物館にはあまり行った記憶がない。上野には国立博物館だけでなく、科学博物館や美術館、動物園がある。

 きっかけは旧Twitterのおすすめで流れてきた投稿だったと思う。博物館でやるけど、現代アートなのかしら、そもそも内藤礼さんとは、という状況で行くのが一番面白いはず。とりあえず行ってみることにした。

 とりあえず行ってみたので、入口のチケットカウンターでチケットを買って1500円払う。観光客(多分外国の方が多め?)がたくさん並んでて、様々な言語に対応している有人のチケットカウンターの人は本当にすごい人たちなんだろうなと思った。語学力、つけたい。自動券売機で買えたら良かったのだけど、多分時間制なので難しかったみたい。有人カウンターだと買えた。ちなみに入場まで残り10分だった。今から行けば間に合いますので!と言われたので「はいいいい!」と急ぎ足で、平成館に向かう。

 東京国立博物館に行き慣れてないので、企画展のチケットで常設展も見られることを知らなかった(まあ、美術館とかはそういうスタイルが多いけど)。超嬉しい。

 

 平成館1階の企画展示室から。この企画展は、博物館内の複数の場所が会場になる。

※以降ネタバレになりますので留意ください。行こうかなと少しでも思っている人は読んではいけません。

 

 この企画展に参加して(観て、とか、行って、という動詞も適当ではあるけども、なんか「参加して」という表現が一番しっくりくる)一番に思ったのは、「そりゃあ、言葉にできないからそれ以外の手段があるのでしょうよ」ということだった。言語の敗北というか。私は結構色々と言葉にしたがるきらいがあるけども、それでは得られないものがあるのだなあ、と強烈に思った。

 最初の企画展示室は、入口に対して横に細長い部屋だ。ガラスのケースがあり、もしかしたらそこには屏風や掛け軸が展示されたことがあるのかもしれない。ガラスケースの向こうと、ガラスケースのこちら側。そんな区切りがあるなかで、向こう側には土版や鏡、石が白く畳まれた硬くて厚めの布の上に置かれ、こちら側にはガラスケースのところに枝や石、空間には上からテグスで吊るされた毛糸の玉、ガラス玉、風船が。横長の空間の端に立ち、遠くの端まで見てみると、毛糸玉が直列に並ぶ天体のように見えた。なんてことはない毛糸の玉だけれど。風船は人が通ると揺れた。壁にも毛糸玉が置かれていたり、1cm 大の鏡があちらこちらにあった。この鏡のタイトルがまた良いのだった。

 室内には長い長い木のベンチが置かれ、参加者はそれに座ることができる。このベンチもまた作品で、高さがちょうどよい、妙に落ち着くベンチだった。博物館にあるかもしれない、ふわふわのソファでは絶対ダメだった。ベンチはシンプルな作りで背もたれもなく、私はそのベンチに腰掛けると背中を伸ばした。ソファではこうはいかない。凭れて弛緩してしまう。ベンチに座る者は、自律することが許される。

 点、ということをよく考えた。

 静かな空間でもあった。人々が移動するときの服の擦れる音、あるいは靴音、あるいは息の音も作品の一部であった。こういう静寂は、普段生きていてあまり得られるものではない。悲しく愚かなことに。

 

 平成館から本館に移動する。本館特別5室へ行くには、おそらくは常設展示がされているいくつかの部屋を抜けなければならない(私はこの博物館について詳しくないので、どう行くのが正しいのかはわからなかったけれど、たぶんどうにかたどり着ければいいのだろう)。幕間。一転、多くの人の隙間を抜けなければならない。このギャップに戸惑う。これを企画展の一部と考えていいのだろうか。多分Yesだろう。静寂から、喧噪へ(といっても、渋谷の交差点とかいった極端な喧噪ではない。とにかく夏休みなこともあり、平日にも関わらず人が多かった)。この変化をどう考えるか、自分の中で消化している間に次の部屋の前にたどり着いた。

 

 東京国立博物館の特別5室がどういう部屋なのかはわからないけれど、1872年に東京国立博物館自体は作られているから、当時の造りが残っていると考えていい部屋だと思う。正方形で広く、天井は高い。床は石造りで、平成館企画展示室の第一会場の毛糸玉とは違って、こちらでは一粒大のガラス玉がいくつもたくさん吊られている。そして壁には紙、そこには絵具の痕跡が何枚も。余白の方が多い。床にはガラスケースが点在し、なるほど縄文時代の遺物が展示され、ガラスケースの上には内藤の枝や毛糸、石や小さな紙に同じように絵具がペイントされた展示。

 空間も巻き込んだアート。展示を見る人も作品の一部というところが良かった。

 縄文時代の、猪の置物があった。猪の置物というのが何かの道具になり得るならば、豊作狩猟祈願とか、あるいは鎮魂のためのものとか、そういうものしか浮かばないが、実用的な目的から離れていくと作り手の気持ちというものがより浮かび上がり、ものを作るという行為の根底にある欲が何千年という時間を越え共鳴する。そんなことをリーフレットのテキストを踏まえて考える。創作の欲望は、猪の置物や土器を越え、この博物館に展示されているすべてのものへ拡張される。

 《座》と題がついた作品には座ることができる。座って、部屋全体をぼうっと眺める。

 天井の窓から青い空と白い雲が見える。展示室には照明はない。日によって、時間によって、この場所という作品も変わるだろう。

 次はラウンジに移動する。ここは展示室と展示室の間にあり、人々の往来の通過点だった。「生まれておいで 生きておいで」に参加しないと、まさか展示があるとは思えないぐらい、ちょこんと存在し、人々は目に留めない。これまでの会場にもあった1cm大の鏡が壁の至る所に、あと《座》に置かれた水の入った瓶。壁にあるソファは、元々ラウンジにあるものだろう。さっきの木のベンチがあればいいのになあ、と思った。

 とても面白い作品たちだった。考えることは難しいが、これを書き終わったあとも色々な記事や感想を読みながら考えていきたい。個人的には、音や視覚情報が制限された空間が心地よく、内にある何かが癒やされたような感覚がした。

 この展示のすべてを鑑賞し、私は平成館のラウンジにあるテーブルの席に座ると、しばらく突っ伏して眠った。博物館(美術館)というのはとても楽しいし充実した時間を過ごせるが、肉体的精神的疲労が、気持ちよりかなり早く到来する。そのもどかしさに慣れない。

 常設展は見られなさそうだと判断して、しばらく庭園のベンチで休み、帰路についた。