根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

#600

 この記事がおそらく本ブログ600記事目となります。

dorian19.hatenadiary.jp

 500記事が2020年11月なので、おおよそ2年か。更新頻度が落ちているのでそれぐらいになりましょう。

 慣例となっている読み返し作業(タイトルだけ)をしてみると「は?」という感想がまず浮かびます。これを書いているのは、誰(私です)。もちろん書いた内容に伴う責任というのは今の私にも帰属されるものですけど、そして書いたことも覚えているけれど、あまりに今の自分と違いすぎる。今の私は「その先」を歩きすぎている(「その先」というのは決して進歩しているという意味ではない)。

 ブログの特徴として挙げられるのはそこにあるのでしょう。つまり、Twitterほど乱発しないから書いたものは手が届く範疇で収まり、ある程度の分量なのでその時々の思想がどうしても染みこんでしまう。結果、今の自分との比較対象になりえる。

 比較して何が得られるのかというと、月並みですが、今は過去になるということと、人生は思わぬ出来事で分岐するということでしょう。そして思わぬ出来事というのは能動的に遭遇しようと思って遭遇できるものではない。

 

 話変わって、卓球のスーパープレー動画を見ていました。歯切れよく編集された動画はスーパープレーのつぎはぎ。ワンカットワンカット鮮やかでスリリングなスーパープレーが披露されていて、その「お約束」に私は安心感を覚えるけれど(なぜならそこにはスーパープレーしか映らないから)でも一方で、実際の卓球の試合は違うわけです。鮮やかなスーパープレーばかりじゃない。サーブミスもあれば、思いっきりフォアを打ってネットするときもある。試合のテンポは一定でなく、見ていてハラハラどきどきするもの。

 

 思わぬ出来事というのはスーパープレーと似ているなあと思いました。それだけ抜き出せば華々しく刺激的であるけれど、人生の中で思わぬ出来事というのは早々あるものではない。そして同時に探せばいくらでも見つけられるものです。

 思わぬ出来事に出会う為には、生き続けなければならないんですね、悲しいことに。

 

 思わぬ出来事に出会う為に、心身ともにほどほどの健康と、日常を生き抜く体力を私にください、いいや、自分でその辺はゲットしなければなりませんね(あるいは維持する)。

 さて、700記事目はいつになるのやら。このブログのコンセプトではないけれど、読み返してみれば多くは私にとって思わぬ出来事でした。それまでこのブログが続けられるといいのですが。だって、続けられているということは多少の思わぬ出来事に遭遇できたということなのだから。