根津と時々、晴天なり

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【雑談】Juiceとドンブラ、総じて欲の在り処

 Juice=Juiceの「好きって言ってよ」のミュージックビデオを見ている。


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 ハロプロのことはぜんぜん知らないのだが(知っていると言えば、モーニング娘。'14の「What is LOVE?」か)たまたま耳にして聴いたら、全員歌がうまい。すごいグループでは、Juice=Juice。歌がうまいだけじゃなくて、全員がそれぞれの声であるということが重要で、歌い方や声に個性が乗ってて、聴いてて大変楽しいのである。

 

 話は変わって、最近の私は戦隊や仮面ライダーを楽しんでいる。楽しんでいるといっても、ただただコンテンツを消費しているに留まり、そこから先がなかなか難しいのだが。

 絶賛放映中の暴太郎戦隊ドンブラザーズでは「欲」というのが一つの軸になっている。ヒトツ鬼というモンスターは人間の欲望から生まれる異形の存在。脳人は脳人の世界の波動を乱す人間の欲望を消し去りたいので、ヒトツ鬼ごと消そうとする。そしてドンブラザーズは人間のことを襲うヒトツ鬼を日々退治し、ヒトツ鬼を粛清する脳人とも争う。というのも、脳人がヒトツ鬼を倒してしまうと、人間も消されてしまうからだ。人間をヒトツ鬼から救う為に戦うのと同時に、ヒトツ鬼となった人間も救わなければならない。

 

 過剰な欲を持つとヒトツ鬼になるらしい。それは子ども向けヒーロー番組としてはなかなか教訓がある設定だと思う。自分が子どもの頃にドンブラを見たとしたら、多分魂に刻まれる教えだよなあ。多分。

 

 最近の私は欲のことを考えるモードらしい(無料公開中の仮面ライダー龍騎の影響もある)。

 

 「好きって言ってよ」は哀愁のような、ほろ苦さのような、そういう雰囲気を絶妙な加減でメロディに乗せている楽曲で、歌っていてきっと楽しいと思う(まだカラオケでは歌ってない)。

 歌っていて楽しい、というのも大事。意味が入る前に形式が先行する。設けられた枠があって、その後に意味が入ってくる。実感が遅れてやってくる。

 食器を洗いながら「好きって言ったら~ありがとじゃなく~、好きって言ってよ~同じ温度で~」と一人歌う女は、傍目から見るとなかなかホラーめいている気もするが、これがとても楽しいのだ。

 

 「好きって言ってよ」で今朝ふと考えていたのは、欲の在り処というのは当の本人ですらなかなか言語化できないものなのかもしれない、ということ。自分がどういう欲を持っているのか、その質は何か、対象は何か、ということを人はいちいち考えるのだろうか。

 欲というのは需要と供給で考えることができるのか。いいや、需要と供給というのはもっと後になってきた概念なのか、だとすると、求めているところに与えらればよいという考えはナンセンス、近代的発想なのか、とか。自分でも何を考えているかわからないことをとりあえず考えてみるってのが面白い。

 

 「好きって言ってよ」は自分の欲の描き方が細かい、のかなあ。なんというか、妙に鮮明である、という印象を受ける。欲の在り処に気づいたところで、それが容易に満たされるとは限らない。その悲しさ、つらさ、みたいなのでひりひりするところが好きな理由かもしれない。このレベルまで言葉にできることってあんまりないよねえ、と私は思う。それを歌がうまい人たちがこっくりと歌うのだ、名曲に違いないだろ!

 

 ヒトツ鬼になる人間は総じて混乱している、と思う。そこに言葉の包丁で以て分解ができたなら、彼ら彼女らはヒトツ鬼になることはないのではないかと思う。となると、ドンモモタロウの一閃で彼ら彼女らの欲が切り分けられ暴走が止まる感じは妙に納得感がある。昔からピコピコハンマーで叩かれた我に返る、みたいな構図もあったことだし。

 私は割と脳人の言っていることよくわかるんだが~、でもそれを公言するのってなんか恥ずかしいかも~と思っていて、人を駆動する欲を認めつつ、それが悪いようにしか働かないなら欲なんてないほうがいいのでは、とか思ってしまう。悩み。でも生きるための欲なわけで、欲、抹殺!はそもそも人間ではありえない。

 私が「許さない、欲!」みたいになっているのは、多分傷つくのが嫌なのだろう。傷つける人間、許さん、というモードになっている。

 

 よくわからない文章になってしまった。とりあえず「好きって言ってよ」を歌う人たち(それはJuice=Juiceを指すのではなく、この曲を歌う人だ)が満たされますように。自分にとって大切なものを見つけられますように、と書いて終わりにする。