根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】推しがいないという感覚

以下、とりとめもない文章です。

 

推し

人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること、または、そうした評価の対象となる人やモノなどを意味する表現。

「推し(おし)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書

 

 とても主観的な感覚になるが、自分の中に「推しがいない」という感覚がある。

 いいや、好きなものがたくさんあって、好きな人(アーティストやアイドルやら様々)がいて、それは「推しがある(いる)」ということでは? というツッコミは想定される。だから「とても主観的な感覚になるが」という言葉でこの文章を始めた。

 多分、もっと厳密な意味で「推しがない(いない)」という人はいると思う。中学生ぐらいの私がそれだった。好きなものがなかったのだ。だから、重ねて言うように私の感覚は厳密にいえば「推しがいない」ではないかもしれない。が、私自身がなんとなーく「推しがいないんだよな」と思っているという事実も否定はできない。ということでこの文章を書き始めるに至った。

 話は変わって、最近あんさんぶるスターズ!!にはまっている。音ゲーの方のスマホゲームでじゃんじゃか好きな音楽を叩くというのは楽しい。あんスタって登場キャラクターって総勢何人いるのだろう。49名? へええ、多いな。全員の名前をインプットできている自分に驚く。その力を歴史の偉人を覚えるのにも使えたらいいのに。

 話が逸れた。

 しののん(紫之創)の星5(一番レア度が高いカード)をゲットできたので、育成しようと彼をセンターに据えて「デートプランAtoZ」を叩いていたら、「ふむ、しののんっていい子だよな~」から始まり、ぼんやりとしののんの良さについて考えるのが始まった。でも、1時間前は「Mystic Fragrance」の瀬名泉の歌声(煽)ほんと好きだな~と思ってたし、そういう感じで、特定のキャラクターが入れ替わり立ち替わり、心の表層に浮かんでくるような、そういう思考の仕方をしている。これって、別に「推しがいない」ことを意味しているわけではなく、特定の推しがいる人もこういう考え方はするだろうと思う。例えば特定のグループが好きでその中に推しがいて、みたいな人とか。

 私はその思考法を採る上で、さらには「推しに対する熱量が弱い」という感じだ。もっと言うと、推しかどうかを判断するのは、ある程度ランダム的な浮上?思考法の中でも、頻繁に浮き上がってくる、浮き上がってくる回数が他より多い、ということかもしれない。それを「推し」と表現するならば。

 おそらく、何か一つにこだわるということのリスクを私は考えている。何かをとことん好きになることによる深化の過程は、私からすると、とても魅力的で憧れるのだが、その好きがなくなったときの自分のことを考えると怖いのだ。『推し、燃ゆ』はそういう小説なのかな、まだ読んでいない。

 私がなぜ「推しがいない」ということにこだわっているのかというと、

  • 明確な推しがいる(ある)というのは楽しそうだし、楽そう
  • だけど私にはそれがなく(自分で思う限りは)楽になりたい

ということだと思う。いいや、何かを好きになることは楽しいことだけではないぜ、それはわかっております。私はとても理想家なのだ。

 リスク回避のために「信じない」ということを採用した結果、副作用として「信じられない」という壁があり、多少なりとも苦しんでいる、というか信じられた方が絶対救われる(宗教はそういうもの)というのが現状の私の悩みというか、悩みほどではないけれど、うっすらぼんやり解消されない事柄なのだろう。

 私は、推しと信じるということを分けて考えていない。推すことには信頼が伴う。信頼していない人を推すことは可能かなあ。推すことの絶対条件ではないにせよ、推すという行為には「信頼」という要素がある。

 私は好きなものに対して信頼を抱くことはある。というか、大概は抱いている。でもそれは仮固定的なものであり、私が作った幻想であり、一面的なものであり、裏切られる(というか、信頼する上で条件にしていることが崩れることはある)と思っている。そこが「推しがいない」という感覚につながるのだろうか? でも、限りなく信頼しているアーティストがいるけれど、「推し」とか「推す」とは呼ばないなあ…。推しって難しいなあ。

 私が推すと表現するとき、そこには「引っかかりポイント」という意味合いが含まれる。

 私がアイドルやアーティストを好きになるとき、大体は全体を好きになってから個別へと視線が移動する。そのときの足掛かりになるのが「推し」的、人。うむ。この表現は結構しっくりくる。要はゲートウェイ的な存在というわけだ。セキュリティ用語でいえば「バックドア」的。だから、現在進行形で盛に盛り上がっている対象(グループ)にいるとき、私はバックドアを使わずともその渦中にいるから足掛かりに求めることは減る(足掛かりがなくても、私はそこにいられるし戻ってくる必要がない)。

 なるほど、書いていて整理された気がする。私にとって「推し」とは、とりあえずのアンカー(錨)なのか。推しを含む世界(私にとっては未知)を理解する為の最初の逗留地。そこから関心が広がるイメージ。

 あんスタというコンテンツで推しがいない、よくわからん、という状態なのは、現在進行形で熱い(私の中でだが)コンテンツであり、タイムリーにシナプスの回路がつながっていくHOTな場所であるから、で、多分ほとぼりが冷めたときにあんスタにも「推し」的なものができるのかもしれない。で、その「推し」は気が向いたときに久々にその世界を訪れた時の最初の足掛かりになる。いや~久々だねえ、元気にしていた? の挨拶から始まり、最近どうよ? という応答、そして他の人の様子を見回っていくイメージ(文章にするとなかなか気味が悪いやりとりかもしれないが、人間の脳内はそういうものだ)。

 ということで、そもそも何か一つに夢中になるということを避けるっぽい自分には世の中的に言う「推し」みたいな存在(あるいは考え方)は向いていないのかもしれないが、私は私なりに好きなものを理解し楽しむ際の機能として「推し」というものを利用していたりする、ということになるのかな。書く前よりは解像度が上がった気がします。良かった良かった。