根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】好きなものと自己肯定感の話

 とある話を母から聞いた。

 同じ職場で働く同僚の娘さんは現在就職活動真っ最中なのだが、企業へ提出するエントリーシートを書く時点でものすごく悩んでしまい、同級生たちと自分を比較し落ち込む日々なものだから、親としてケアするのも大変である、という話。

 私は的確なアドバイスをするのが苦手な質なので(どちらかというと一緒に考え込んでしまったり、前提をひっくり返したいという好奇心が暴走する人間)案の定有益なアドバイスはできなさそうで、言えることといえば「就活よ、滅んでしまえ」ぐらいである。

 ただ、その子の話の中で、就活以外で気になる話があった。「自分は馬鹿だから」ということを口にすることがあるというのだ。

 

 自分は馬鹿だから? はあ?

 

 私はその言葉に愕然としてしまった。自分を貶める言葉としてこれ以上の醜悪な言葉があるのだろうか!

 「んなわけないじゃん、何言ってんの」と思わず言ってしまった。口調が思いのほか強くなってしまった。

 そんなもんで、私は先ほどから一人で怒っている。具体的な誰かではなく、誰かが自分を馬鹿だと言ってしまう、例えば「世界」とかそういう抽象的なものに対して。

 

 私は自分のことを「馬鹿」だと言わない。それはいわゆる学力的にどうこうという話ではなく、とにかく言わない。それは自分を貶める、自分の価値を自分で損なう言葉だと思っているから。

 自分の価値を自分で落としたところで誰も褒めてくれないよ。むしろそういうところに付け入る悪い奴らがこの世には一定数いる気がするよ。あと、謙虚というのは、自分の価値を自分から落とすことではないよ、むしろ謙虚というのは、自分のことをどこまで客観的に冷徹に見ることのできる力があるってことだよ(それは私の持論なだけだが)。

 

 Love yourself.

 自分を自分で愛せ。私としては、自分はとりあえず生きているわけだし、その存在は他の誰の承認も必要ないものであって、「自分は生きていていいのか」という問い自体がナンセンス! という感じではある。自分の存在を愛するとか愛さないとか、ぴんとこないなあというのは、愛する愛さないを考えなくていいほど満たされているってことなのかしら、わからないな。じゃあ、自分を愛せなかったら生きられないんですか、生きてちゃいけないんですか、んなわけないだろ。自分を愛する愛せないことと、生きるか生きられないかの問題が絡むのはよくわからない。・・・。書いていて自分でもよくわからなくなった。

 

 自己肯定感の話。

 自分の自己肯定感が高いかはわからないが、「あー、マジで自分やっていけないわー」と思ったときにふと考えたことがあるのでそれだけ書いておく。

 私には好きなものがたくさんある。でも、昔から多かったわけではない。好きなものの存在自体は周りにあったが、それが自分の好きなものだと言えるようになるまでものすごく時間がかかった。好きなものを好きだと認めることができなかった。

 好きなものを好きだと言えなかった理由は今もよくわかっていない。多分「好き」という言葉の意味が自分の中で腑に落ちるまで時間がかかったのだろうと思う。例えば「推し」という言葉が今でもよくわからないふわふわとした言葉であるように。「これを好きって言っていいのかな」といつも思っていた。「私なんかがこれを好きって言っていいのかな」と思った。

 でも、そのうちこう考えるようになった。とりあえず、何かを好きであるという感情は、存在が肯定されているものらしい、と。もちろん、好きであるという感情の基にした行動の是非は別だが(例えば恋情のあまり人のことを刺しても、刺したことは肯定されない)。

 好きであるという感情は持っていていいらしい。なるほど。じゃあ何かを好きになった方が楽しそうじゃん。そうなった。要因としては、いろんな人が好きなものについて語る様、それがとても楽しそうで幸せそうに見えたからってのがあると思う。

 

 好きなものと自己肯定感の話にどんな関係が? それが結構私の中ではあるのだ。

 自己肯定感を「ありのままの自分を肯定する感覚」とする。

 私でも自己肯定感が揺らいでいたときがあったと思う。「あったと思う」なんて、なんでそんなにぼんやりとしているかというと、ドラスティックに自己肯定感が高まるわけではないからで、徐々に変化していく物事の決定的な瞬間を捉えるのは難しい。

 ともかく、ゆらゆらしていた当時、藁をもすがる気持ちで考えていたのは「好きなものは否定できないなあ」ということであった。それは確固たる意志としてあった。好きなものを他人に否定されるのは仕方ないが、自分は否定したくない。自分の存在有無はともかく、好きなものの存在は確かだった。私はそれが好きだし。I like itだもの。

 で、次に考えていたのは「好きなものを好きである自分でいたいな」ということだった。それは私の理想。好きなものを好きである為には、自分も存在しないといけないな、ということだった。早い話が、好きな作家の最新作を読む為には私はなにがなんでも生きなければならなかった。好きなものがあって私がいる、である。

 この感覚を言語化して以降、自己肯定感は自然とついてきた気がしていて、とりあえずそう思ってみる、ということは大事なのだなあとつくづく思う。型は大事。中身は後から入ってくる。

 

 以上の思考プロセスは、生きていく為の最適化というか、根拠づくりというか、荒療治という気がしないでもない。自分の自己肯定感やら、自己存在やらを肯定する為(=自己肯定感?)の、私なりのロジック。でも自分を納得させられればそれでよいロジックである。

 

 ということで、怒りに背中を押され、一気に書いてしまった。他の人の話についてスパッと切れ味の良い助言はできないけれど、私の振る舞いが誰かにポジティブな影響を与えられるなら、嬉しいなと思う。