根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】良心の青田買いについて

 新年早々こんなことを書くと「病んでいるのか」と思われそうだが、そうでもない。むしろ本当に駄目だと何も書けなくなるので、これでも私は回復していると言える。年末年始は確かに調子が悪かったけれど。

 良心の青田買いについて考えていた。以下は新明解国語辞典より。良心とは「自分の本性の中にひそむ欺瞞や打算的な考えなどを退け、自分が人として本来あるべきだと信じるところに従って行動しようとする気持」のこと。青田買いとは「稲のとりいれ前に、収穫高を見越して前もって(安く)買うこと。俗に最終学年になって間も無い(いたる前の)学生と入社契約を結ぶこと」。

 それを踏まえ、ここで私が言う「良心の青田買い」というのは、何かを好きになるときに、対象の良心を図ろうとする行動、である。わかりやすく言えば「この人大丈夫なのだろうか?」と思ってしまうということ。私はそれをかなり打算的に行っているのではないか。それって、はっきりいってすごく窮屈だ。サイズが小さい服を着せられている感覚。

 何故こんなことを考えているのかというと、例えば何か(誰か、でもいい)を好きになったとして、蓋をあけてみれば自分の価値観的には「無いな」と思う倫理観の持ち主だったとか設定だったとか、とにかくそういうことがあって(ままある)そのことに私は少なからず傷ついてきたという経験があるから。でも思うけれど、傷つく道理なんてあるのかな。傷つくことが果たして私に許されているのだろうか。そうして自分の中に生じた感情をいつだって持て余してきた。あるときは寝て食べて体を動かして忘れてきたし、あるときは中途半端に向き合ってモヤモヤとした感情が消え去るのを待った。そうした遅延行為みたいなものは一つの対処として有用ではあるが、私の場合あまりに繰り返されている。その繰り返しに私はうんざりしていたのかもしれなかった。

 話は変わるけれど、好きな小説である『スロウハイツの神様』のとある一節のことを思い出した。この作品に登場する小説家チヨダ・コーキはこう言った。以下は辻村深月スロウハイツの神様(上)』より。

『もし、それが本当だとするなら——』

 微かな震えを浮かべた声は、けれど一語一語、とてもはっきりと発音されていた。

『僕の書いたものが、そこまでその人に影響を与えたことを、ある意味では光栄に思います。人間の価値観を揺るがせてしまうなんて、小説って、僕が思う以上にすごい。作家冥利に尽きます』

 チヨダ・コーキは自身の小説が他者に与える影響、それに伴うあらゆることを引き受けると言った。(どういう文脈でこんなことになったのか、気になる人は読んでみてください)

 この言葉に倣えば(もしかしたら倣っていないかもしれない。チヨダ・コーキと私は立場も状況も違うのだ)何かを好きになる時点で、何かしらの責任が生じるのではないかと思うのだった。責任と言っても大袈裟なものではない。主体的に好きになるということだった。好きになる対象、客体にまつわるあらゆる事象・現象を、私は私なりに引き受ける必要があるのではないかと(引き受けた結果、「対象から逃げる」という選択もあるのかもしれない)。

 良心の青田買いをしてしまうのは、一言で言えば、間違いたくないからであり、失敗したくないからであり、善良なる人間でいたいからだ。好きになった相手が倫理的に眉を顰める振る舞いをしたとして、私の責任をそこでごちゃごちゃと考えたくないから。でも、多分関係ないってことはありえないんだ。「引き受けない」という選択を私は諦めなければならないのだ。そう思ったら、ほんの少しだけ肩の荷が下りた感じがした。

 もちろんこれからも、私は私の価値観で以て何かを好きになることがあると思う。好きになった対象が「うーん」と思う状況に陥ることもあるだろう。そのとき、私は私なりに問題と対峙しよう。いいかげん腹を括るのだ。

 

 そんなことを考えていた。何かを軽率に好きになることをいつの間にか怖がるような、そういうところが最近あるような気がしたから。

 

 また、この試みは何かを好きになることに限らない。例えば「何かを支持する」ということにも繋がるであろう。

 つい先日、Choose Life Projectという映像プロジェクトに対する抗議文が発表された。その内容は多くの人を失望させたと思ったし、CLPのコンテンツをそれほど追ってなかった私も残念に思った。今、CLP側に何らかの対応が求められているのは言うまでもないが、CLPに少なからず関心を抱いていた私もこの問題の背景にあることと向き合わないければいけないのではないか、そんなことを思った。そうでもしないと、この気持ち(失望感?)を消化できない、というのもあるのだけど。

 

 思えば、私(私たち)が人間を一瞬で正確に見極めることが可能なのだろうか。よほど人生経験豊富な人、あるい何か修行でもして曇りなき心の眼を持っている人でもなければ無理ではないか。私は私以外の人を瞬時にどういう人か判断することはできないし、判断したくない。だから好感を抱いていた人に裏切られることもあるだろうし、失望することもあるだろうし、その逆もきっとあるだろう。だから良心の青田買いは些細な抵抗とも言える。 未来に起こる失望に対するちょっとした保険、結構疲れるんだよね、この人大丈夫かなどうなのかな、って考えるのが。

 だからこれからは、あんまり考えないで好きになりたいな、と思う。好きになったその先で何かあれば決然とした態度で臨みたいな、そういう強さを持てるようになりたいな、と。