根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】私の読書感想文の書き方2021

 最近よく考えていることを1年前の私は既に言語化していて「あら、やるじゃない」と自分のことながら言ってみたいものだけれど、この件に関して2021年に新しく言いたいことがあるのかというと、それは「別に読書の感想に限ったことではないのよね」ということだった。

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 私の好きな『図書館の魔女』より、以下を引用する。注)傍点は省略

 ――なぜ私の不意をつきたかったのかって? 不意をついてどうするの? たまたま遭ったということで、普通の会見とは違う何か重要な違いが生じるの?

(中略)

「先を取るためです。自分の気持ちで勝負をはじめたというかたちにするためです」

 (高田大介『図書館の魔女 第一巻』p.158)

 

 私は本の感想を書こうと思っているとき、結果的に書かなかったとしても、自分の中で内容に関する感想がまとまるまでは他人の感想を読まないようにしている。まずは他人の感想にできるだけ染まってない状態を形にする。形にしたら、いくらでも気が済むまで他人の感想を読む。オリジナルなものとミックスしていく。変化していく。

 感想に「間違っている」なんてことはあり得ないのだけれど(同時に「正解」もない)自分の感想で観点がずれていたとしてもあんまり気にしないようにする。何故ずれているのか、何がずれているのか、そんなことを検討する方がずっと面白いと思うから。

 以上のことは、別に本の感想に限った話ではなく、最近だと日々のニュースで言えると思う。ただニュースは本の感想と少し違う感じがする。正しいか正しくないかの議論がもう少し活発だ(うまく表現できない)。そりゃそうだ。本の感想と社会的な出来事は違う。

 引用でキリヒトは「先を取るためです」と言った。私はこの言葉がずっと好きだった。他人の感想を読まないことは、私にとっての「先を取ること」で、つまり、主体的に物事と関わるということだった。

 少しずつ世の中のニュースに関わっていく。まずは先を取り、自分はどう思うのか考える。そして多くの人の意見に触れながら変容させていく。

 何故そんなことをする?うーん。誰かを無自覚に傷つけたくはないし、もし自分が間違っているとしたら(ほんとよくこの言葉できるけど、何なんだろうね「間違う」って。何と照らして「間違う」の?)そこは正したいじゃない?それに人間には好奇心ってものがあるのよ。

 

 ということで、方針は変わらない。本の感想に対する振る舞いを、社会的出来事に拡張しただけ。それにしてもこの世の中には「感想」が多すぎる。そのこと自体は絶対悪いことではない(大事なことだし)。ただ「感想」に触れて消耗しないというわけではないのよね、なんてことも考えていた。これも私の「感想」。