根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑記】『私の思春期へ』を聴きながら考えていたこと

 ミンチャンさんがTo My Youth(私の思春期へ)という曲を歌っているということが、あまりに私の心をかき乱す。

 

 ミンチャンさんが帰ってきた。2020年後半から体調不良で活動を休止していて、2021年6月1日に正式に活動を再開することが発表されて、当日はなんとVLIVE(アーティストとライブでコミュニケーションが図れるツール)の生配信で元気な姿も見せてくれた。なんてことだろう。私はその知らせを受け取った時カレーを食べてて、カレーの美味しさなんてどうでもいいくらい嬉しかった。もちろんカレーも美味しかった。青空にはいい感じに雲が浮かんでいて、風が吹いていて、ああ、6月1日は祝日にしてほしい。だって祝福されるべき日なのだから!と思った。午後も普通に仕事したけど。今のところ6月1日は祝日になっていない。

 ミンチャンさんが元気に活動してくれることを当たり前だとを思わないように、と思った。教訓?としてはそういうことだ。ミンチャンさんだけでなく、自分が好きなものが存在していることは当たり前ではないことを、もっともっと自分は噛みしめないと。

 

 ミンチャンさんからの突然のプレゼントは、赤頬思春期(Bolbbalgan4)の『To My Youth(私の思春期へ)』のカバーだった。私はこの曲を知らなかったのだけど、和訳を調べて崩れ落ちた。そんなことってあるのか、と思った。

 彼がこの曲を選んだこと、選んだうえで活動復帰後のプレゼントとして歌ったことの真意を、私が知ることはない。<時間は薬だ>と思えたのだろうか。<明るい光>になれるのではないか、なりたいと思ったからまた戻って来てくれたのか。私には、どうしたってわからないのだ。でも、ミンチャンさんが歌いたい、届けたいものだもの、受け取りたい。受け取ってしばらく考えに身を浸したい。消化して溶かして何かの糧にしたい。

 

 『私の思春期へ』という曲を初めて知ったという衝撃もあって、しばらく呆然としていてた。そうかあ、そうだよなあ、と思いながら歌詞を読んだ。

 

 私の話にはなるけれど。

 ひととき この世から消えたかったの

 世界が真っ暗で 毎晩泣いていた

 いっそのこと 消えれば楽なのかな

 みんなの見つめる視線が怖かった

  そんなことを考えるのはもう飽きてしまった。

 「飽きてしまった」と言えるぐらい、自分の考えごとに占める割合が減ったというのもあるし、意図的に「飽きよう」と思って振舞っていた効果もある。

 依然として深く昏い沼はそこにあるけども、私はそれを見るよりは違うものを眺めていた方が<生産的>だと思った。だから見るのをやめた。<生産的>という言葉は使うのが難しい言葉だ。<生産性>を存在意義にしてはならないから。深く昏い沼の自分探しは無駄なことなのだろうか。そういう次元のものではないだろう。

 飽きてもなお、『私の思春期へ』という的確に感情を救いとる曲に出会うと惑う。フラッシュバックのような感覚に陥る。動揺してちょっと泣きそうになる。その季節はとうに終えたはずの私で思うのだから、学生時代に生きる、私より若い人たちは大丈夫なのだろうか、と、ちょっとだけ不安になる。思春期の私がこの曲を仮に聴いていたとして、どうだったろう、「あ、私の歌だ」と思って、救われたのだろうか。

 

 無責任なアドバイスはできないけれど、<時間が薬>かもわからないけれど、「生きてみる」ってのは一つの選択だ。どうせ未来は自分が思っている未来と重ならない。それをポジティブに考えてほしい。可能性はある。夢とか目標を否定しているわけではなく、ただ自分が想像もつかないようなちょっとした良いこともあるかもしれないぜってことだ。生きている限り。何かを成し遂げようと思わなくていいし、ただ息を吸って吐いてればいい(あ、VIXXの『Error』の歌詞だ)。私は昔より今の方が好きだし楽しい。

 

 それぞれのペースでメンタルヘルスを大事にしていってほしい。私は食べること寝ること運動すること時々どこかに出かけることが必要なので意識して実践しているけど、各自で自分が気分良く暮らせる術を見つけてほしいなと思う。

 

 ミンチャンさん、素敵な歌をありがとう。私はあなたの声が好きです。