うふふふ。観ました。
面白かったなぁー。ぞくぞくしちゃう。ということで、考えたことを書こうと思います。原作は読んでいないのですが、原作を読むつもりがある人、ドラマを見るつもりがある人は読まないでください。
人は自分が見たいものを見る
「人の心なんて心理学者でさえ完璧に推し量ることなどできないのに、どうして殺人者の動機を、真実を、人は知りたいと、知ることができると、理解できると思うのでしょう」みたいなことを劇中に仁藤(松坂桃李)が言っていました。
雑誌記者の晶(尾野真千子)は娘同士が同じ幼稚園で仁藤とちょっとした交流があったが故に彼に関心を寄せていくわけだけれど、それは何故なのか。自分が拵えた仁藤という人間像が壊されていくたびに、新たな仁藤を作り上げていく。自分が納得できるように。理解できるように。でも結局最後に残ったのは「人は簡単に理解できるようなものではない」ということだけだった。
そういうもんだよねぇ…という気がします。そんなに驚くようなことを言っているわけではない。「理解できないものがある」ということを前提にして考える方が私はむしろ自然だと思います。人は考えたいように考えるし、見たいように見る生き物。先入観が必ず働くし考え方の傾向もあるし嗜好もある。常にバイアスがかかった状態で判断しているということを弁える必要があります。
「本を置くスペースが欲しい。妻と娘を殺せばその分彼女たちのものが減るから本を置ける。だから殺した」
まったくもって合理的じゃない。殺すことが唯一の手段なわけではない。手っ取り早くもない。リスクがあるし犯行が明るみになれば刑務所に収監されて本のスペースどころの話ではない。目的のための最善の方法とは思えない。でも本人はそう言っている。これがすべてであって、事実を蔑ろにすることは決してできない、ということを劇中何度も何度も感じました。
私も最初は裏があるのだろうと思ったのですが(もうこの時点で私は晶なのです)話が進むうちに、どうもそういうことではないということに気づく。その都度確からしいこと、もっともらしいストーリー候補ができあがるけれど、数秒後には「なんか違うらしい」と砂の城が崩れていく。この繰り返しを二三度味わって、晶と視聴者は自分たちが都合の良い筋道を作っては壊し作っては壊すのループに嵌まっていたことを思い知らされるのでした。
フィクションの前に従属するしかない
これは私の考えですが、小説を読み通すためには読み手はある程度小説に歩み寄る必要があると思っています。主人公のこの考え方が気に入らないとか、こういうことは好きではないとか、わからないとか、腹が立つとか。読んでいると絶対理解できない部分が出てくるのですが、そこを括弧に入れて読み進めなければ本を読み切ることはできません。どうしても何も「その世界ではそれがそうあるべき」なのです。受け入れられない者は立ち去るべし。小説の世界はとても寛容ですが同時に容赦がありません。小説の方から折れてくれることはない。
小説読みにとって「理解できないこと」というのはあまり珍しいことではないと思うので、本読みの仁藤の考えは本を読むことで培われてきたものもあるのかなぁ、と思いました(こういう推察も推察なだけであり真実ではありません)。
仁藤がもう少し頭が良くて邪悪だったら最後は世間を翻弄し騙した自分の所業に酔い嘲笑する結末だったろうに、そこまで頭が良くないというか、他人に興味が無くて邪気がないからこその話だったなという気がしました。
晶に対して「あなたの方が殺人に向いていますよ」と言ったのは、晶の方がよほど真っすぐだからなのか。人に執着した末の殺人の方が出来がいいからなのか(本を置くスペースが欲しいから、ってのは動機としては美しくないです)。この台詞もなんだか「人は物語を求めてしまう」というメッセージを感じさせるものだなー、というところで感想を終わりにします。
最後の晶の行動は、何も知らない人間からしてみれば「夫の不実にブチ切れた妻の凶行」ですが、ここまで物語を見てくれた視聴者の人はそんな風に切り捨てたりしませんよね「わからないなーわからない」と思ってくれますよね?という良い終わり方だったと思います。ぞくぞくしました。