根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【映画】『静かな雨』を観に行きました

 映画『静かな雨』を観に行きました。我ながらなかなかのスピード感でした(上映している映画館が比較的行きやすかったというのもある。もっと上映館数増えろ)

  • 2020年2月某日 久々に『静かな雨』を読む(図書館本)
  • 同日「やっぱりいいなぁ」と思う
  • 同日「やっぱりいいから後で書店に買いに行こう、扱っていればいいのだけど」と思う
  • 同日 特に意味もなくインターネットで検索する
  • 同日 映画が上映されることを知る→とても驚く
  • 数日後 観に行く

  こういうときのフットワークは軽いのですよね…休日だったからというのももちろんあるのですが、映画というのは自分としてはかなりハードが高くて(だってチケット代が高い)「えいや!」と思い切りが必要で、行きたい」という熱が冷めないうちに行かないと永遠に行かないので…とにかく観に行きました。

 

 いや~良かった…のかな。私は好きな作品だったしこれを機にもっと映画を観ようとさえ思いました。備忘録として感想をまとめたいと思いまする。あらすじを語るのは面倒なので省きます。

 

行助の身体性

 主人公である行助(ゆきすけと読む)は生まれつき片足に麻痺がある(原作では松葉杖を突いている、とある)。映画では片足を引きずって歩いていて、ズッズッと音がする。まずここで私はびっくりしてしまって、というのも、そこには行助の体があるってことで。原作だと行助の視点で物語は進むわけで、足が不自由であるということは彼にとっては生まれてからごく当たり前のことで、わざわざ意識されないぐらい自然なことなのだ。不自由な足でどう暮らしていくか、その折り合いは彼にとってはだいぶ前についているもので、だから読者は行助の足が不自由であることなんて特に意識はしないのだ(少なくとも私は意識して読んでいなかった)。なのだけれど、映画では行助の視点で観客は物語を見るわけではない。視点はもっと流動的で、誰の目線にもなりうる。大体は第三者の視点だと思うけれど、視点は観客自身が動かせる。本を読むときもできなくはないけど、私は映画より難しいなと思う。どうしても語り手目線で読んでしまう。

 そんなわけで、映像として行助という人物を見たときに「こりゃあ大変だろうな」と私は率直に感じてしまったのだった。行助の背後に視点があり、足を引きずってひたすら歩く行助。行助の前を歩く人たちの姿はどんどん小さくなっていく(遠くなっていく)。これが行助の身体性であったわけだ。本を読んでいる時には忘れていた点だったので、びっくり、というわけでした。ここに冒頭のこよみさんとの会話「諦めの色をしていた」という話が絡んでくる。ひゃー。

 

想像以上のきつさ

 映画のHPにも書いてあるので書いていいかな。行助はパチンコ店の敷地で一人たいやき屋を営むこよみさんに魅かれるのだけれども、二人が親しくなった直後にこよみさんは事故に遭い短期間しか新しい記憶を留めておけなくなる。そこから二人がどうするのか、ってのが『静かな雨』のストーリーです。正確に言えば、こよみさんの記憶は一日しかもたない。毎朝、自分は何故ここにいるのか、自分が最後に記憶している地点と日付にズレがあるのは何故か、というところを解決してからこよみさんの一日は始まります。毎日です。行助は毎日毎日彼女と過ごし彼女との思い出を蓄積していくけれど、こよみさんは行助との思い出を積み重ねていくことができない。この事実を私は読んでいて甘く捉えていたな、と映画を観ながら痛感しました。

 例えばこれから私はいつものようにぐっすりと眠り、翌日億劫がりながらも起きて一日を始めるわけだけれど、今日の私と明日の私をつなげるものは何なのだろう。私は今日映画を観ました。「映画を観た」という経験を明日の私が当然のように覚えていられること。「映画を観た」私のまま一日を始められること。その連続性を私たちは自明のものとして捉えているけれど、本当にそうなのだろうか?いや、違うよね、ということをこの映画では暗に観客に投げかけている(そこが主題ではないかもしれないけど)。一日一日がぶつ切り状態のこよみさんは一体どんな気持ちなのだろう。そのこよみさんと一緒にいる行助はどんなことを思っているのだろう。映画を観ながらどうしても考えてしまいました。しんどいな、と思います。

 でも、そういうものじゃないかな、と思う自分もいます。

 確かに私は今日のことも昨日のことも引き継いで明日を生きることが今のところできているけれど、明日も生きられる保証なんてどこにもないし、人生って連続はしているけれどブツ切りされたものと考えることもできそう。人間はどうしても眠らないといけないし、そこで一旦意識は途絶えるわけで、毎日毎日が新しいといえば新しい。今日映画を観た感動を、明日の自分が全部覚えているわけではないし、人間はその瞬間を生きている生き物なんだろうなーということは考えていました。この考えは自分の中ではしっくりくるものです。まあ、でも行助のソウルジェムがどんどん濁っていく感じは見ててつらいものがありました。

 

逃げる?

 こよみさんは劇中で家族と疎遠であることが暗に示されてます(随分と帰郷していない)が、とあるきっかけで母親が登場します。この母親(なんと河瀬直美監督)が行助に放ったひとこと「逃げる?」のボディブローがじわじわと効いてくるのもたまらなかったです。この台詞のテンションがひゃーーーーって感じで。別に怒っているわけでもなく「こんな風になった娘、面倒だものね」みたいなニュアンスがちらちらと覗いていて行助を試す感じがね、ひゃーーーーでしたね。あとこの母娘、雰囲気が似ていて「ああ母娘なんだな」と思うのと同時に母親の振る舞いを見る感じ母と娘の間にある溝の存在もうっすらと見えて切なかったです。

 

 他にも色々と語ればキリがないですが、予告を改めて見たりして振り返ると好きな映画だなぁと思いました。なんか、すごく綺麗なものを見てしまったような、それって実在するものなのかなってぐらい純度が高い映画を観てしまった、そんな気がします(そこらへんはインタビューを読んでいると「寓話」という表現があって腑に落ちたろことがあります)。でも、どうしようもない生活でも映像として撮ってしまうと結構味わい深く思えちゃう何かがあるのだよなぁ(ホームビデオとか見ているとそう思うことがある)。

 

 親しい人と一緒に見たいと思う映画でした。映画を観終わってたい焼きを買って食べました。美味しかったけれどいわゆる「養殖もの」だったので、「天然」で一丁焼きにこだわっていたこよみさんのたい焼きが食べてみたいです。

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