根津と時々、晴天なり

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【映画】『蜜蜂と遠雷』を観に行く

 映画『蜜蜂と遠雷』を観に行ってきました。

 恩田陸小説のファンであります。原作も読んでます、多分3回は読んでいる。本を雑に扱いすぎてボロボロになってきた感があって、『蜜蜂と遠雷』は保存用にもう一冊欲しいなと思っているほど(そういう本はごくまれにあります)。

  

 ただ同時に、漫画や小説が原作となった映画の実写化にやや懐疑的なところもあります。表現媒体が異なる時点でそれは別個の作品として見るべきだとは思っているのですが、それでも完全に切り離してみることができないのが人情。そして実写化で難しいのは、既に原作を知っている人間には彼ら彼女の中で登場人物のイメージが出来上がってしまい、それが人それぞれ微妙に異なっていて、それらを完璧にカバーする実写化は無理だろうというのが私の中の理由の1つ。あとは実写化する際に核になるテーマが原作から変質してしまっていることが時々あるということ。実写化は難しいなと思います。だから『蜜蜂を遠雷』も観るつもりはあまりありませんでした。

  迷っていた。

 ただ映画に行く時間が取れたこと、流れ流れてきた評判が良さそうだったこと、やっぱり『愚行録』の監督さんだし…。面白くなくても、まあいいや、エイヤッと意を決して行きましょう!ということで一人映画館に乗り込みましたとさ。2時間後。

 

 完全に『蜜蜂と遠雷』にK.Oされていた。

 

 すごかった。

 じゃあ、めちゃめちゃすごかったのか、と聞かれたらよくわからないけれど、少なくとも自分はガンガン頭に響いてしまう映画でした。楽しかったなぁ。

 ということで、どの辺にクラクラときたのか感想文を書きたいなぁと思うのですが、ネタバレ有りかもしれないですし、原作既読の人間が言う戯言なのでその点踏まえて読んでいただけると幸いです。あんまり物語のストーリーに迫ったところは書かないと思うけれど。

 

秀逸なキャスト

 まずはこれに触れなければいけないと思います。キャストがすごかった。今このタイミングでやらないと集められない!そんなキャスティングとなったのでは。主役4人は文句なしの配役なのですが、特にマサルと塵については「マサルが、塵が動いて喋っている!!!!!!」と驚き。マサルについては多分演じられた森崎ウィンさんがネイティブ並みに英語を喋られる方のようで、もう合間合間の流暢な英語が見事…。マサルらしい大らかで天才ゆえの無敵っぷり、余裕ある佇まいが表現できているのがとにかくすごかった。マサル、本で読んで知っているあのマサルだったよ。塵は塵で、演じられた鈴鹿さんは本当の新人。クラシック界に突如爆弾を投げ入れた(というか自分自身がある種の爆弾)塵じゃん、それ…。また目がくりっくりで恐れを知らない、世界に祝福されただ呼吸することも愛されてるような風間塵そのものでした。めっちゃ可愛かった。無垢を体現していた。その他にも、課題曲『春と修羅』を書き上げた作曲家の菱沼さんは光石さん。べらんめえ口調は強くなかったけどガラの悪そうな風貌で、スピンオフ『祝祭と予感』を読んだ後でその姿を見てしまった日には涙(とは言い過ぎですが)。生活者の音楽がどこまで行けるのか、勝負する明石を支える妻・満智子の臼田さんも、「ああああああわかるううううううう」になる。『春と修羅』を作り上げる過程での夫婦のやり取りの空気が良かったねー。そして映画オリジナルとして、明石の知り合いでピアノ修理職人に眞島さん、クローク係に片桐さん。嬉しい!臼田さんと眞島さんは『愚行録』に続いての出演かー。クローク係ってなんやねん、と思った原作既読組もいると思うのですが、時々挟み込まれるクロークの風景がコンクール会場!って感じがするのと、片桐さんが登場するとそれだけで空気が入れ替わるような、そういう刺激になるなぁと思います。それにこの「クローク係」って結構大事なポジションだったと思うなぁ私(後述)。そしてこの人はすごい!というステージマネージャーの田久保には平田さん。ううううわかるううううう。田久保さんの優しさとプロとして仕事をバリバリとこなす様、どちらもきちんと演じられていて、この映画キャストすごい。

 

服が、音が、物が

 小道具フェチというか、細かいところを見るのが好きです。「音楽」がテーマの映画なので「音」が印象的だったのは言わずもがなかもしれませんが、小道具も「好き…」になりました。

 栄伝亜夜の真っ青のコートと白い肩掛け鞄。あの白い肩掛け鞄、私も欲しい。亜夜についてはメイクとヘアスタイルも印象的で、肩の上でスパッと切りそろえられたつやつやの黒髪と化粧っ気のない容貌。なんというか、天真爛漫とはちょっと違う、影もありつつ自然体な亜夜そのものだなーと思いました。着飾らない感じ。

 マサルについては電子楽譜?みたいなやつとiPad。常に最新のものを取り入れ己の価値観をアップデートさせるようなたくましさを感じます。iPadを使いこなすマサル、めちゃめちゃわかる。原作にそんな描写はなかったはずだけど、絶対マサルiPadを使う子だ。クレバーで戦略家、使えるものはちゃんと使える人間。

 風間塵の木製の無音ピアノも「むむむ」と唸った小道具。塵のエピソードは例えば自分のピアノを持っていない、父親が立ち寄る場所に付いて行ってそこで見つけたピアノを演奏するだけ。コンクールの会場である芳ヶ江に滞在するようになってもピアノを使って練習した、みたいな描写はあまりなくて(風間塵に「練習」という言葉はまったく似合わない)生け花の先生のところで泊まらせてもらったエピソードが風間塵らしいところだけどそれは映画ではカットされていたので、その代替としての無音ピアノは良かったです。世界に溢れている音を鳴らす塵にとって、ピアノは音が鳴らなくたっていい。彼の中ではなっているのだもの、ということでしょうか。

 この映画は印象的なシーンもたくさんあって、小道具関連で言えば明石の住居、満智子と息子が台所に立つセットと亜夜が母親と部屋で連弾するシーン。好きです(小道具フェチからの愛の言葉)。この作品における、人物やエピソードと物の繋げ方が、多分私の好みに合っているのだと思います。

  • 明石が子どもを自転車で送迎するシーン→明石の子煩悩っぷり、生活者であることを示す
  • きちっとした服に身を包む満智子と息子、そして会場に入る時は上着は脱いで手元にも無い事→舞台がコンクール会場であるということ、クロークがいるということ
  • 亜夜の水筒→幼いころから使ってきたもの、母の思い出、マー君とのつながり

 えーん、好き。

 音でいうと、ピアノの音もそうなのですけれど、靴音が好きでした。

 

好きなシーン

  • 亜夜が幼いころ母とピアノで連弾したときを思い出す回想の場面
  • マサルが朝のジョグをしている場面
  • 蔵で明石が『春と修羅』を満智子に聞かせている場面
  • 本選直前舞台袖に亜夜が登場する場面
  • 海辺の場面
  • 夜空に月が浮かんでいる海沿いの道を亜夜がまっすぐ歩く画面

 

 『蜜蜂と遠雷』は天才たちがバチバチ化学反応を起こしとんでもないものを見せてくれる物語。私は天才ではないけれど、天才の彼ら彼女の姿から得られるものはたくさんある。片桐はいりさん演じるクローク係は、荷物を預かる合間に多分あれはコンクールを見ているのだと思っているのだけれど、耳にイヤフォンをしながら何やら聴いているんですね(コンクールじゃなかったらどうしよう)。そんな感じで天才だろうがなかろうが、音楽を楽しむことはできる、と思う。音楽だけではなく世界にあるあらゆるものを享受することは、できる。刺激を受けてまた自分が少し更新される。それも十分すごいことではないか、と思うわけです。それに『蜜蜂と遠雷』で一番大切だなーと思ったことは、自然体でいること。そりゃあマサルも塵も亜夜も驚くほど「天然」。世界に対する恐れはあることはあるけれど(塵はない)無邪気。どこか子どものようにワクワクしながら生きているところは、それは天才だからできることなのかもしれないけれど、私だってそうありたい。良かったなー『蜜蜂と遠雷』。どうなるかなと思っていたけれど、話の筋は知っていながらも細かいところは微妙に異なっているので読めない驚きもあって楽しむことができました。

 しばらくは映画の余韻に浸りながら(もう一度観に行ってもいいかもと思っている)原作を読むのは当分先でしょう。この感覚を原作を読んでまた上書きするには惜しいです。おすすめーとは言いませんが、楽しかったです。(プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番、超スペクタクルな冒険活劇のBGMっぽくて聴いていて超楽しい。原作では「スターウォーズとか言われてた。確かに。今でも映画の背景音になっていてもおかしくない新しさ)