根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【雑文】乾いた風が草原を撫でるように

最近思っていることがありました。

今に始まったことじゃなく、時々やってくる感覚だったのけれど。

こんな感情に襲われている自分、正直嫌だなと思っていました。嫌だと思っているなら変えていかないといけないなと思ったので、この心の動きにある何かは一体何なのだろうか、と夜道を歩きながら色々と考えてました。悲しくなりながら。

 

思うに、私は「好きに飲まれている」のではないでしょうか。少し混乱しているのではないか。要は好きなものが自分のアイデンティティーになってないか。「○○が好き」ということで「私」をどうにか保とうとしてはいないか。距離感はき違えてないか。いや、多分そうだよね…。少しの楽しみでどうにか生き凌いでいるのだから。

もちろん、例えば「自分の好きなものが評価されてない!!!世界の馬鹿野郎!!!」とは叫びません。『子どもたちは夜と遊ぶ』の月子ちゃんとか『スロウハイツの神様』の環の言葉を浴びなさい私よ…と思います。(どちらも辻村深月さんの作品です)「自分の価値を他者にに委ねるな」ってやつです。

「好きに飲まれている」というのはつまり「好き」で一喜一憂しているということです。もちろん基本的に楽しい趣味の分野なので毎日ハッピーハッピーなのだけれど、それでも感情の落差が激しく、ジェットコースターの上がり下がりが「好き」の対象に依存しているってのが問題なのだと思う。

飲まれてしまっているのは、私がそれを「生き甲斐」にしているからであり、距離の取り方がいまいち良くないからであり、多分私が私のことを好きじゃないからだと思われます。結局そこに行きつくのか。「自己肯定感」。

 

関連して。

私は書き手と内容が密接に絡んだ文章が特に好きで、個人の毒とか世界の見方とかそういうものが滲み出ているものを読むのが楽しいと思っています。

自分もそういうものが書ければいいなぁ…とは思っていたのだけれど、少し重たくなってきました。身体が重たいんです。自分の中にある鬱屈とした感情を眼鏡のレンズにして、そこから見えた世界ばかり書くのもどうなのかな、と思うようになりました。もう少しさらっとしたいな、と。

 

何が言いたいのだったか。

「好き」との向き合い方を考えてみましょう。もう少し自分の足で歩きましょう。自分を好きにならないまでもきちんと認めましょう。一個人として痛みも面倒なことも引き受けられるようになりましょう。そうして歩けるようになった段階で、楽しく日々を彩るお供として「好きなもの」を愛せるようになりましょう。

ということです。

 

もっとカラッとした、そんな湿度でこのブログもやっていきたいです。タイトルみたいな方向性です。すごいポエムですけれど。まあ、そういう心象風景。今後の抱負。