「好き」を語ることに対して、時々怖さを感じることがある。というのも「好き」を通して「私」をはかられるような感覚を覚えるからだ。私は普段、誰かの「好き」を通して誰かのことを推し量ることはないような気がするのだが(自分の認識プロセスがよくわからんな、と例えばSNSをしているときに思うことがある)「好き」が「私」の入り口であるような気がしてならないのは何故だろう。それは、多分、自分で言うのも変だけれど、「好き」が自分にとって特別なものであるからだ。心折れそうになった時、好きなもののおかげでエネルギーがむくむくと沸き、また歩けようになっだことなど挙げたらキリがない。もちろん私の「好き」は私の好きなのでそれを大切に固執することなく生きていけたらいいね。前置きが長くなってしまった。
恩田陸作品が好きだ。作品によって好きのグラデーションは異なるけれど、私にとっては読みやすい文体で、読むと古巣に帰ってきたような、そんな安心感さえ覚える。どんなところが好きなのだろう。それを考える文章。
みんなとにかくお喋り
恩田陸作品の登場人物たちはとにかく皆お喋りだ。ひたすら喋る。それは世間一般的な「お喋り」とは少し違うように思う。物事ひとつひとつの考え方が深い一方で、話題の対象が多岐に渡るのだ。まー。とにかく喋る。内に向かって、外に対して、とにかく喋る。そしてそこには知的好奇心が多分に含まれ、知識をひけらかすような狭さは感じない。この「お喋り」がピンとこないともしかしたら読み進めるのは苦しいのかもしれないけれど、私はかなり「わかるーーー」と頷くタイプだったようで、お喋りに身を浸しながら読むのが楽しかったりする。特に喋ってるのは、旅ものである『夜のピクニック』『黒と茶の幻想』、食べまくり飲みまくりお互いが疑心暗鬼になる女たちがとにかく喋る『木曜組曲』、本人がとにかく喋る「神原恵弥」シリーズであろうか。
基本的に優秀
これは恩田陸の共通点であり、かつ、弱点かもしれないけれど、基本的に出てくる登場人物たちは優秀な人たちだ。頭が良く将来を有望視されキャリアを着々と歩む人たち、もしくは一芸に秀でている人、社会のレールから外れても飄々と生きてしまえる人。弱点と書いたのは、要はそれに当てはまらない人たちの物語が描かれることはないということだ。すべてを描くことなど到底ありえないことで、何を描くかというのが作家性なのだから構わないと思うのだが、少し、んー「選ばれしもの」というなんというか、なんだろう、結局この人たち類稀なる才能を与えられた特別な人たちなんだよなーみたいなぐつぐつと紫色の沼みたいな気持ちを感じると言えばそれは意地悪だろうか。しかし優秀な人がその才を余すことなく使い、世を謳歌する様を見るのは痛快ではないか!なんとなく漫画っぽい感じがするのも恩田陸作品なのかなぁと思う。自分をしっかり持っている人たちが多いので「自分とは何か」とかそういう鬱屈した感情を持たずに読むことができるのも、私としては精神衛生上良いかもしれない。(そこをとことん追求する作家さんも好きでありますが)
あんまりべたべたしていない
恩田陸作品を読んだ最初の頃(中学生くらいだ)特に気に入っていた点が、著作の多くが恋愛小説ではなかったところだ。恋愛小説が苦手だったので、ジャンル分けが難しい独特の世界観がすごく魅力的に映った。
ここまで書いてみて振り返ると、私は恩田陸作品の話の筋を気に入っているよりは、瞬間瞬間の会話なり登場人物の考え方に惹かれているような気がする。となると「とある小説が好き」という感情はどこから立ち現れているのか気になってくる。何故その小説が「好き」と言えるのだろう。わからないな。でも読んでいて楽しいから、というのは外せない要素だろう。
私の特に好きな恩田陸作品(今)
なにせ学生の頃から読んでいるので話の内容を忘れてしまったものもあるし、いまだに全部読めてはいないけれど、今、特に好きな恩田陸作品をご紹介。おすすめしたいというわけではないことをご了承願いします(人に本を勧めるって私できないのよね)。
ネクロポリス
割と最初の頃に読んだ気がする『球形の季節』か『ネクロポリス』が私にとっての最初の恩田陸作品だと思うのですが、この二作読んで心が折れなかったので多分波長が合ったのだろうなぁ…と今なら思う。独特の風習がきちんと構築されているところ(その辺りはファンタジーっぽい)主人公が学者の卵であることなどが好きな点。怖い。
三月は深き紅の淵を
短編集。細部が超好き、という箇所がたくさんあって。恩田さんは旅情に訴えかけるのがすごく上手いなと思っていて、旅する話を読むと旅行に行きたくなる。
もはや読みすぎてて好きとは言えなくなってるやつ
黒と茶の幻想
これ単行本で持ってるのですが、400ページくらいあるのかな、英和辞書レベルで分厚くてその分厚さが好き。もはや読みすぎてて「好き」なのかよくわからなくなってる本。旅行ものとしてはこれが一番好きというか、考え事が連続してるけれど分断されている。ぶくぶくとエピソードの泡が生まれては破裂して、みたいな連想の連続が旅行らしいなと思ってて、とにかく4人がよーく喋るのを聞いてるのも楽しい。
麦の海に沈む果実
読みすぎてしまった。面白いのは、学生時代に読んでいた時は「こういう学校あればいいのになぁ、自由で自分のやりたいようにできるじゃない」って思って憧れの気持ちを抱きながら読んでいたけど、そこから抜けると昔読んだ時ほど切実には胸に響かない。だから今の私が読んでまた新しく付き合い方?を構築する必要があると思ってるのですが、結末を知ってる分なかなか手を伸ばせず。ただこの文章を書きながらあらすじを反芻していたら「あ、この部分面白そう」と思い始めたので、再読は近々できるかもしれない。
他にも恩田陸作品はたくさんたくさんあって、ジャンルも様々。しかし根っこにある雰囲気はどれも一緒のような気がしていて、多分それは「世界」との距離感。結局わたしはその距離感に惹かれて読んでいるようなもので、恥ずかしいし言い切るのもどうかと思うけど「こんな風に生きたい」って思ってしまうほど。それは私が人格形成の過程で恩田陸作品に出会い影響されてしまったから?あるいは元々私の考え方として近しいものがあり、磁石なように引かれてしまったから?鶏が先か卵が先かの話になる。「世界」とある程度の距離を保つ姿勢、観察者であることを選ぶ姿勢、剛と柔、両方を併せ持つバランス感覚。恩田陸作品とは、私にとって大きな作品なのだ、と改めて自覚するとともに、そんな自分を疑い続けることもかの作品たちは教えてくれるような気がする。そんな作家を見つけられて(見つけられたと思うことが)幸せなのかどうかも、これからずっと考えていきたいところ。