根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【食べ物】クレープが食べたい

 2019年はタピオカミルクティーの年であった。

 

dorian19.hatenadiary.jp

 

 2020年はどうか?

 クレープの年である。

 素晴らしきかな。クレープ。新年明けて5日目にして、私は、なんというか、そんなに人がいないショッピングビル(如何とも形容し難い建物)の中に入っていたよくわからないクレープ屋さんのショーウィンドウのチョコバナナと目が合ってしまったのだ。ぎくりとした。クレープ。私の記憶の中では500円くらいするものであったが、380円くらいだったので震えた。キョロキョロと意味もなく辺りを見渡し、クレープを買うことをさまたげるものがないことを確認した(お財布に400円ほどあれば私はクレープを食べることができる)。3分後には出来立てのクレープにかぶりつき、ニコニコする私であった。

 「クレープ、食べてもいいの?」無意識に誰か見知らぬ人の承認が欲しい気持ちになるのは、私にとってクレープとは手が届かない高みの存在だったからだと思う。クレープ、買ってもらったこともなかったし自分で買ったこともなかった。贅沢品だと思っていたし、今も思っている。そう、書籍に近い。手を伸ばす時少しだけ抵抗感が生まれるあの感じだ。ケーキに対してはそんな抵抗を感じないのに、クレープに対して感じるのは不思議なことだ。ケーキの方がよほど値段が高い時もあるというのに。

 クレープの醍醐味は「生クリーム」だというのが今の私の見解。時々生クリームに埋もれたいという欲求に頭が支配されることがある。生クリームは私を否定しない(私の胃袋が受け付けない時はあれど)。生クリームのベットがあるならそこにダイブしたい(理想です)。生クリームはいつだって甘くてくどくてまろやかで。マッサージより生クリーム。温泉より生クリーム、である。ケーキだとそこにスポンジやタルト生地がついてくる。そうなると少し強い。私はベッドに潜りたいだけなのに、余分なものがついてくる気がしてしまう。ケーキは嫌いじゃないけれど…。生クリームを堪能する時、クレープという食べ物はケーキよりも生クリームがダイレクトに味わえるのではないか、という気づきを得て以来(つまり今年の1月のことです)日々生きていると禁断症状のようにクレープについて考え始めるようになった。例えば疲れた時など。

 毎日毎日「クレープを食べたい」と思っている。でも流石に毎日は食べられないので、クレープはある種の手札として考えることにした。ここぞというタイミングで出すとっておきのカード。毎日考えている。「今、クレープを食べるべきタイミングか?」と。大概の場合は「ノー」だ。もっとクレープを食べるにふさわしい日があるはず。今日は別にチョコを食べてしまったし、とか。今日は全然頑張れていない、とか。お腹が空いていない、とか。もっともらしい理由をつけてどんどんクレープを食べるタイミングを遅らせる。そうして本当に耐えきれなくなったとき、落ち込んだときに、私はその札を掲げるのだ。きっとピカピカ光り輝いていると思う。そして何も気にせず頬張るクレープは心底美味しいものになるだろうと思っている。

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