根津と時々、晴天なり

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【KAT-TUN】Love myselfについて考えてたこと/『Love yourself ~君が嫌いな君が好き~』

 ジャニーズ懐古モードなのだろうか。またもやジャニーズの曲についてつらつらと書く。今回はKAT-TUNの『Love yourself ~君が嫌いな君が好き~』である。

 ただ、数少ない思い出の中でもとびっきり好きなのは2枚目のシングル『SIGNAL』だったりする。何故強く印象に残っているのかというと、この曲を当時使っていた携帯電話の着うたにしていたからだ(着メロだったかもしれない)。その携帯電話は初めて買ってもらったもので、すごく嬉しかった記憶が(といいつつ友だちが少ないので使用する機会があんまりなかったけど)。ああ懐かしい。着メロ1つダウンロードするにも親の許可が必要だったあの頃、あったねーそういえば。

 そんな古き良き思い出に浸ることはほどほどにして、本題?に入る。

 最近、なんだかLove myselfの時代だな、と思うのであった。

youtu.be

 

 Love myselfは「自己肯定感」とイコールなのかどうか。

 私に関して言えばイコールではないと思う。私はlove myselfしなくたっていいと思っている。自分を愛せるか愛せないかに関わらず人間は生きていていいし、好きなことしていいと思う(もちろん他人の尊厳も認めたうえで)。自己肯定感については、最近ようやく落ち着いてきていて、冷蔵庫の中身でとにかく料理を作るしかないんだ!という考えになってしまった。つまり、自分は変えられるけれど変えられないところもあるわけで、手持ちのカードで戦っていくしかないん。そりゃあカードの種類を増やすためにめちゃめちゃ努力することも大切だし、ある程度は必要なのだけど、と。「自分は自分で良い」という感覚と「自分のことを愛せる」は別だ。愛は、なんというか他者との関係の中にあるものなんじゃないか。わからんけれど。自分も他者ではあるけれど、例えば恋人という本当によく知らない他者とまるっきり同じか。同じではない。Love myselfをことさらに歌わねばならないということが、なんとも息苦しい世の中であることの証左になっている気がして、憂鬱になる。でも、それがうまくいかないのはよくわかる。私自身うだうだ悩むこともある。そうしたら私は何に悩んでいるのだろう、と考え込んでしまった。自己肯定感は無いわけではないと思うのだけど・・・。自己肯定感とは別で、ただひたすらにやりづらいのかもしれないな、と思う。まあそんなことはどうでもいい。KAT-TUNの曲の話をしよう。

 

 この曲、好きなのだけどそれだけで済む曲でもなく、一体何だというと「めちゃめちゃイライラしながら一方で大好き♡」という曲なのです。どんなところにイライラするのかというとこの曲のキーワードでもある「君が嫌いな君が好き」って部分。それはこの曲の全否定なのかというとそうでもなくて、難しい話なのだ。書きながら私も考えているわけだけど。

 ある種ラブレターみたいな曲で、「君」は自分のことが嫌いである。だけどこれを歌う「僕」は「そんな君も好きだよ」と「君」に一生懸命伝える曲。「「君」が自分に対して好きになれない部分も別に欠点なんかじゃなくて君らしさなんだよ」みたいなことを暗に示している。「僕以外の人間が君のことわかってくれなくても、僕は君のことが魅力的に思えて好きだよ。」

 ・・・。

 かーーーーーーーーーーーーーー。(←!?)

 ええ、ええ、認めますとも認めます。「こんなこと言われたーーーーーい」って思った自分がいたことを認めますよ私は。でも。なんか、そこに甘えちゃいけない、って思っちゃったんだよな。拗らせているのかもしれないけれど。

 自己肯定感ってのはどんなに他人から甘い言葉をかけてもらっても、褒められても、肯定してもらっても、自分が自分のことを肯定しなければ何の意味もないのだ。多分その部分に私はもやもやしたし「甘えちゃいけない」と思ったのだと思う。KAT-TUNからの言葉はありがたく頂戴するとして、しかし、私が私の存在を認めなければ、不器用だろうが他人から見向きされなかろうが関係ないわ!という境地にはなれない。あと、自分以外の誰かに自分の存在を委ねるってのは危険なことだと、私は常日頃から思っている。人間は日々変化するからだ。他人を信用している/いない、の問題ではない。

 「君が嫌いな君が好き」大いに結構。「だけど」。そうなのだ、どうしても「だけど」がついてきてしまう。僕は君に君を好きになってほしいのか、僕は君が好きだよってことを伝えたいのか。その両方なのか。両方なのだろう。それは成立するのだろうか。するのだろう。が、私はモヤモヤする。「「僕」が私のことを好きになってくれるから私という人間には価値があるし、私は存在していいんだ」と思ってほしくないのだ!。これか!!!わかった!!!解決!!!

 ということで歌詞中の「僕」みたいな人がいてくれたらいいなぁーと思いつつ、それは沼だ、ハマっちゃいけない沼だ、と頭をぶんぶんと振り、私はこの曲が今の今までずっと好きだ。メロディは切ないし6人態勢のKAT-TUNって、もうどうしてあの頃注目してなかったのだろう、全員のスタイルが違いすぎて超面白い!!!なグループだし、田中さんのラップは頑張って歌えても赤西さんの英語パートは歌えません、も大好きだ。KAT-TUN、すごく面白い曲出してる(SIGNAL然り)。

 めためたに言っているが別にこの曲に非は無いと思う。難しい話なのだ、これは。ただ確かなのは、この曲がリリースされた当時、私は思春期真っただ中で「自分とは何か」なんてことをひっきりなしに考えていて、自己肯定感についても考えていて、この曲を聴いて救われたようななんか違うようなと思って、今の私があるということだ。だからこの曲は私にとって特別なのだと思う。

 

dorian19.hatenadiary.jp

 

 昨日の嵐も然り、思わぬところで影響を受けているものはたくさんあるのだなと思う。2019年のリリースされたITZYの『DALLA DALLA』から色々考える人もたくさんいるだろう。こうして毎日毎日誰かにとっての特別な曲が生まれ、特別な瞬間がそこかしこにあるのだろう。

 

 ちなみに、私には「僕」みたいな人はいなかったので、こんな境地に至りました。

 

 どんな自分であれ生きていていいと思うし、自分を責める必要もないと、私は思っています。KAT-TUNストリーミング解禁しないかな・・・なんてね。

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