根津と時々、晴天なり

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【AAA】共感と感動のことを考えていた/「ぼくの憂鬱と不機嫌な彼女」感想

一時期、AAA(トリプルエー)の数曲をよく(よく?)聴いていた時期があることを思い出して、手始めにこの曲を聴きだした。良い曲だなと思う。

で、この曲について何か書きたいなぁ…と思って少し考えたところで、この文章を書きだしている。「共感」と「感動」って別だよね、という話。

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「ぼくの憂鬱と不機嫌な彼女」

このタイトルだけでいいのではないか。歌詞なんて必要ないのではないか。それぐらいこのタイトルは印象的ですべてを物語っている。私はこのタイトルが好きだ。

憂鬱に思っているのは「ぼく」で、不機嫌なのは「彼女」。誰が登場して、それぞれどんな気分なのか。それしか書かれていないのに関係性がはっきりとわかる。すごいなと思う。

この文章を書くまで、私は比較的「ぼく」の気持ちに寄っていて「彼女」の気持ちを考えたことが無かったのだけれど、それが視点の強さだなと思った。誰の視点なのかで印象は大きく変わるのだろうなと。

この曲は「ぼく」の曲で、「ぼく」が見てきた風景だ。それは本当に正しいのだろうか。正しいけれど、きっと「彼女」の正しさもあって「彼女」の曲も聴きたいなと、今、ふと思った。とするとタイトルはどうなるのだろう。もしかしたら「わたしの憂鬱と不機嫌な彼」になるのかもしれない。

 

共感と感動

昔からラブソングなるものが苦手だった。聴いているとなんだか恥ずかしくなるけれどわかっていないといけないような気がして聴く。けれどやっぱりよくわからなくて、私はまた恥ずかしくなる。

いつかわかるようになりたいなと思いながら、実際今もまだピンときていないのではないか。ラブソングは、わからない。

少し前までは「共感」できるものをよく探していた。自分と同じ感覚。ああ、私が感じていることと同じ言葉を喋っているもの。必死で探していた。そういう音楽やアーティストをよく聴いたし、そういう本を読んでいたし、そういうブログを読んでいた。

今も「共感」を探すことは続いているし、これからもずっと探し続けるだろう。その時私が欲しい言葉、私と同じ言葉を探すと思う。悪いことだと思わない。でも、それだと世界は広がらないと思っている。

世界を広くするにはきっと「感動」が必要だ。「共感」できなくていい。「共感」しなくていい。いつかわかる時がくるかもしれないし、一生わかる時がないかもしれない。けれど捨てなくていい。心揺さぶられたものは大事に箱にしまっておきたい。思い出したら箱から取り出して、もしかしたら理解することができるかもしれないし。

 

「共感」を探すのは案外簡単だ。自分の嗜好、価値観を把握していれば見つけるのは容易い。けれど「感動」は探すものじゃない。訪れるものだ。感動の気配を逃さないように窓を開けておかないといけない。リラックスしていないといけない。寛容でないといけない。難しいなぁ…。

 

久々に「ぼくの憂鬱と不機嫌な彼女」を箱から取り出して、以上のことを考えることができた。自分でも驚いている。良かった。箱にしまっておいて良かったなぁ…。

この曲が好きなのは、ミュージックビデオがサンドアートでアーティスト本人が一切出ないところもあるのかもしれない。音から情景を立ち上げやすくなる。もちろんAAA本人たちが出演しているMVも好きだけれど。

あとは、ピアノの旋律が綺麗だからだなぁ…。綺麗なものは、好きだ。

 

他にもこれとか

AAA / 「風に薫る夏の記憶」Music Video - YouTube

これとか

AAA / 「恋音と雨空」Music Video - YouTube

これとか

AAA / 「愛してるのに、愛せない」Music Video - YouTube

よーーーーーく聴いていたな。私が自分が生まれた年より5年くらい前に生まれていたら、もしかしたらAAAのライブに行っていたのかもしれない。実に惜しい。