根津と時々、晴天なり

大好きなものをひたすら言葉を尽くして語りたいブログです。

【読書】【舞台】どうしようもなく好きなものが、そこにはある/「スロウハイツの神様」

 演劇集団キャラメルボックス サマープレミア 「スロウハイツの神様」を見てきました。その感想です。備忘録です。今身体のなかで渦巻いている感情を整理するためのものです。話のネタバレはしませんが、これから見る人は見終わった後に進んだ方がいいと思います。内容にはあまり踏み込んでない文章です。

www.caramelbox.com

 どうしようもなく好きな本が、一冊や二冊あるものだ

 私は、本を少しばかり読む人間です。といっても「読んでいる」人の足元にも及ばない量ですが、それでも多少は読んできました。読書の記録もつけているし、最近はさらに本の感想をもっとアウトプットしていきたいなと考えていますが、以前からやっているのが「私を作る本10冊」を考えるというもの。私が人生を歩む中でこれは欠かせないだろう、それぐらい影響を受けてしまった本を10冊決める、という試み。これだ!と思える本は実はまだ10冊決まっていませんが、この『スロウハイツの神様』(辻村深月著)はその10冊の中に間違いなく入る本です。どうしようもなく好きな本。というか、どうしようもなく心揺さぶられ、それが時を経ても未だ褪せることのない本、なのです。

 今までメディア化されていなかったこの本が、この夏舞台化されるとの報を聞いて、私は迷うことなくチケットを取りました。しかし、正直なところ当日舞台の幕が開いてから10分くらいまで私は疑っておりました。というのも読んだことのある物語がアニメ化なりドラマ化なり実写化なり実現しても、あまり良い思い出がないからです。でも、それは仕方がないことという気もしています。

 

表現の手法が違えば、それは異なるものなのだと思う

 私は小説を読みますが、何が面白いって登場人物の内面が事細かに描写されていることです。内面の描写はドラマや舞台、映画、アニメで小説の通りに100%実現することができないところだと思っています。モノローグ(独白)を緻密に織り込んでも、明らかに足りない。だから小説ベースに考えてそのままストーリーを描いてもどうも物足りなくなってしまうような印象を個人的には抱いております。そんなことにはならないように、異なる手法で同じ題材を扱うときにはその表現に応じて題材を再解釈、再構築する必要があるのだろうなぁと思っているのです。最近だと小説『氷菓』(米澤穂信著)とアニメと実写映画化、の流れで考えることがありました。実写映画はまだ公開されていないので、予告映像を見た限りの感想だけれど。

  そう、手法が違えば同じ題材でも別の作品なのである。

 

 ということで、「スロウハイツの神様」に話を戻しますと、私は原作を既読していますが、原作はあくまで原作。舞台はあくまで舞台として見ていく必要があるだろうなぁ、と思っていました。じゃあ「演劇」という手法(?)で果たして題材はどう解釈されたのだろうか…。…。なんだか怖い。だから不安でした。あのシーン、このシーン、どうやって舞台の上で再現するのだろう?時間も限られている。何が省かれどう組み立てていくのか。どきどきしておりました。キャラメルボックスさんの舞台は「鍵泥棒のメソッド」のみ。この作品を見て不安に思う必要などないことはわかっていながらも、まあどきどきしていました。不信、というよりは「未知」の怖さ。まあ、でも杞憂でした

 

舞台って面白いんだな

 開始10分。どきどきわくわく。「鍵泥棒のメソッド」を観たときは戸惑った部分もあったけれど、割と早く舞台に集中することができた気がします。世界に馴染むことができたら、あとは楽しむだけ。お芝居はあまり見たことがなかったけれど、舞台というのも面白いんだなぁと思いました。映画館で見ることと重なるけれど、映画とは違って生きている人たちがその舞台には立つのだから、世界の作り方といいますか、なんだか繊細だと思いました。演者さんだけでなく、観客も姿勢が問われるのです。具体的に言うと、観劇中に携帯のブザーがなったらもうダメだと思いました。私が見ているときは皆さんマナーが良くて何事もなかったけれど、些細なことで簡単に世界が崩れる。演者と観客が結んでいる約束事が壊れてしまうような感覚を抱きました。舞台って、面白い。

 

演劇だからこその表現

 この場面、どうするのかなぁと思ったところ。色々あったけれど、特に「回想するシーン」ってどうするのだろう?と思っていました。結果、面白かったです。そうするんだぁ~うわ~素敵、みたいな。こういうやり方、いいじゃん、って思いました。やっぱりプロの人はすごいです。おんなじ場面が何度か登場して、それぞれ目線が異なる人物、というシーンもあるのですが全然大丈夫でした。テンションをきちんと保って演じられていた演者さんも、すごかった。本当にすごいなぁと思いました。

 

狩野君がイケメンでした

 「スロウハイツの神様」には色々な人物が登場し、原作だと物語が進んでいくにあたって目線もコロコロと変わっていくのがこれまた面白く魅力的なところですが、物語の根幹をなす「赤羽環」「千代田公輝」という2人の人物とはこれまた異なって、物語の軸だろうなぁこの人いないとこの物語はありえないよなぁ、という「狩野壮太」という人物がいてですね。例えると、もう接着剤と言いますか中間管理職と言いますか、そういう人あたりの良さを持つイケメンなんですけれども。舞台だとさらにイケメンでした。普段、私は「ああこの人が彼氏ならば…」みたいな考えをあまりしない人間なんですけれど、今回は違いました。狩野君(舞台)の彼氏になりたい...と切実に思いました。

 キャラメルボックスの舞台は以前見たお芝居もそうですが、泣かせるところは泣かせて、でもユーモアも織り交ぜていて、だからツッコミもばんばんあるし面白いなぁって思っていましたが、狩野君も気が利く優男ですので、激しくツッコんでいて良かったです。ああ好き。

 

どうしようもなく好きなものが、今日の自分を支える

 「スロウハイツの神様」という物語を読むと、私はこんなことをいつも考えます。今日も劇場を出て黙々と歩く中でずーっとこんなことを考えていました。登場人物たちの原動力も、どうしようもなく好きなものとか心揺さぶられたこととか信じられる人とか、そういうものなのではないかなと思います。私にとって「スロウハイツの神様」も自分を支えてくれる作品です。

 どうしようもなく好きなものは、思いもかけずやってきます。そしてずーっと好きであるとも限りません。でも、とりあえずひとときでも私を支えてくれる存在であることは間違いありません。んー何が言いたいかわかってませんが、そういう「どうしようもなく好きなもの」があることはとりあえず幸福だし(←もしかしたら同時にしんどいかもしれないけど)それがあれば生きていけるなぁ、と思いました。私はなるべくそういうものを見つけていきたいし、見つかったらとにかく愛でたいし、見つけられるように肩の力を抜いて色々な世界を見ていきたいなぁ、と思いました。演劇のチケットを勇気を振り絞って取る、なんてのもそういうことです。

 と同時に、私にとって大したことがなくても、別の人にとっては「どうしようもなく好きなものである」というのもよくあることで、その花々を踏みにじる権利は私にはないのだろうなぁ、ということも。これは気を抜くと忘れるというか都合よく考えるところでもあるので、注意したい。

 

 大体、考えていることは出尽くしました。まあ、素晴らしい舞台でした、ということです。素敵な舞台だったなぁ。幸せな時間でした。しばらくご無沙汰でしたが、小説、もう一度読みなおそうと思います。

 

 

 キャラメルボックスの「スロウハイツの神様」を観てきました。

 

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(下) (講談社文庫)